黒谷を香人のメッカにする勝手プロジェクト

米川常白居士の墓参りをしよう!

数年前まで、「自分は米川常白の生まれ変わりでは?」と思っていた・・・

勘違い男の鎮魂歌

 

米川常白って・・・誰?

 江戸時代「香を一度も聞き外したことがない」というずば抜けた嗅覚を持つ伝説的香人がいました。彼は「米川常白」、慶長十六年(1611年)京都生まれ、実家が烏丸一条で粉紅屋(紅染)を営んでいたため、通称を「小紅屋三右衛門」と言いました。香道は、少年期から相国寺の芳長老(巣松軒 蘭秀等芳)に学び、師匠が亡くなった22歳の時に香木と道具を譲り受けて既に独立しています。家業の紅染屋も彼が二代目を引き継いで、「山梔子(やまくちなし)を下染めに使うことで紅の色が深くなること」を考案したのを契機に隆盛を極め、「香」と「紅」の両方で名声を馳せる「香紅屋」(こうべにや)となりました。

 さらに、香道においては「伽羅聞き米川常白」と言われて当世第一の香木の目利きとされ、後水尾院樣や中宮の東福門院樣の庇護を受け、禁裏に伝わる香木を拝領し、禁裏所持の名香の真偽鑑定などをする傍ら、『列国五味伝』によって香木の木所と聞き味を確立し、現在の「六国五味」の基礎を築きました。また、現代に残されている様々な式法や香道具等を考案するなど、当時の香道の伝授に数々の「新義」を開いています。さらに、禁裏にあった組香を習得して、自らの新義のほとんどを「勅定」として地下(市中)に伝えたため、爆発的人気を博しました。後に大枝流芳が「米川常白、世に出て後香事一変す。」と記述している「米川流」は、ここから隆盛を誇ることとなり、このことが彼を「香道中興の祖」とも言わしめる所以ともなっています。その後、彼の香業の様子についは書物で伺い知ることはできないのですが、延宝四年七月二十日(1676年)に66歳で彼が亡くなると「米川没して香道衰微せり。」とあるように当時の香道界に劇的な変化をもたらしたことは確かのようです。

 東福門院樣との深い交流のきっかけは、禁裏御用の紅屋であったためか、巷での香人としての名声が先に耳に入ったのかは定かではないのですが、今でも彼の墓は、東福門院樣の御廟所である東山「泉涌寺」の月輪稜を望む方向に立てられています。  

 ※ 米川常白の当て字については「常伯」とする文献が多く見られますが、ここでは墓碑銘に合わせて「常白」を用いています。

墓参りルート

 まずは、黒谷の「金戒光明寺」(こんかいこうみょうじ)を目指しましょう

住所: 京都市左京区黒谷町121

アクセス:市バス「岡崎道」下車徒歩8 

拝観自由  

光明寺バナー

 「金戒光明寺は、法然上人が「比叡山での修行を終えて都へ向かう道すがら、都を望む丘の上に至ったところ、紫の雲が忽ちにして立ち込め、幾筋もの光が一面を照らし出す不思議な光景を目の当たりにして、傍らの石に座って念仏を唱え、その霊験を慕って初めて草庵を営まれた」といわれる地であり、知恩院を総本山とする浄土宗に7つある「大本山」の一つです。また、幕末には、京都守護職に任ぜられた会津藩士たち一千名の本陣にもなったため、その墓地があることでも有名で、東北人としては捨て置けない名刹です。

 観光のついででしたら、平安神宮の東隣の「岡崎通り」を真っ直ぐ北上すると、道が突き当たりますので、そこで右(東)に曲がれば、お寺の入り口が見えます。  

 「くろ谷」↑の石柱が見えたら、右側の店で花が売っていますので、花を買い求めましょう。(米川家の墓所には一対の花立てがあります。)

 入口の高麗門をくぐって、石畳の参道まっすぐ歩き、突き当たりの手前左(北)に「石段」があります。石段を登って見えるのが、後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」の勅額の掛かった「三門」(山門)です。(石段を登らずに道なりに左に登ると後述の太鼓橋への近道ですが、このあたりは見晴らしもよく桜の名所ともなっていますので、三門を目指すことをお勧めします。)

 これを潜ると正面に金戒光明寺の「御影堂」(大殿)が見えます。中には、「法然上人の75歳当時の座像」吉備観音(重要文化財)」が安置されていますので、一見の価値ありです。

 本堂の拝観は、墓参りの後にすることにして、そのまま庭を右(東)に曲がり、恵心僧都最終作の「本尊阿弥陀如来」を安置した「阿弥陀堂」を回りこむように道なりに下っていくと「石の太鼓橋と池」が見えます。ここからが墓地の入り口で左(北)には、手桶の並んだ小屋もあります。

 正面(東)に伸びる高〜い石段」が文殊塔へ続く「墓地のメインロード」になっています。まずは、これを登って東の頂上にある文殊塔(運慶作の文殊菩薩を本尊とした三重塔)を目指します。

 石段を登り終えて塔が見えたら、直前で左(北)に曲り、最初のT字路を右(東)に進みます。突き当たると「五区←→四区」と書かれた木の案内板がありますので、これを「五区」(北)の方に進みます。

 すると、道の先に「東屋」のような屋根が見えてきます。右側の東屋と道を挟んで向いが「米川家墓所」(道沿い)です。

    (南から撮影)

 その向こうには、「大きな黒い石碑」↑があり、これを越えてしまったら行き過ぎです。

 (北から撮影)

 「西雲院」から墓所に向かう場合は、この「石碑と東屋の間」↑が目標です。

※ GPS携帯をお持ちの方は、およそ北緯35112秒,東経1354724 です。

 

「米川家墓所には、六基の墓石があります。

(北)

中村氏貞月之墓

(操軒の妻)

寛文五年乙巳七月十一日

光誉恵三大姉

(常白の妻)

寛文十三年癸丑七月十二日

理性大姉米川氏之墓

(?)

寛文十二年壬子七月二十日

操軒幹叔居士

(常白の弟)

延宝六年戊午八月十九年

東庵常白居士

(常白)

延宝四年丙辰七月二十日

足菴宗節居士

(常白の子)

元禄十四年辛巳五月二日

(南)

 正面前列真ん中の「東庵常白居士」と墓碑銘が刻んであるものが米川常白の墓です。墓前にある石の平卓の上に線香立てがありますので、良いお線香で霊を弔いましょう。花立は墓所の両端に一対ありますので、できればお花もお供えしましょう。お念仏は、浄土宗の発祥の地ともいえる場所ですので「南無阿弥陀仏」が良いでしょう。お願い事は香席での「百発百中祈願」に御利益ありと信じています。(ただし、香人としての精進が足りませんとご希望に添えない場合があります。^_^;)

 米川常白居士との語らいを十分に堪能しましたら、黒い石碑を左に見て(北)進み、突き当たりを左(西)に進みますと「西雲院」の東門が見えますので入ってみましょう。  

 「西雲院」は、谷の金戒光明寺の塔頭のひとつで、法然上人が腰かけ、念仏を唱えたという「石」を護るために創建されたといわれています。西雲院の境内の東南の角にお堂があり、そこに黒谷の山号である「紫雲山」の名前の由来となった紫雲石があります。境内は、夕刻に京都の西山に沈む夕日を正面に見ることもでき、南を望めば平安神宮の大鳥居越しに平安京が俯瞰できるという大変眺めの良い所です。また、春は牡丹、夏は蓮、サルスベリ、秋は紅葉と四季折々に花の絶えないお寺で「花の寺」としても有名です。

 西雲院の散策が終わったら、南門から出て真っ直ぐ下ると、私が「ガメラ石」(玄武が台座になっている大きな石碑)を左手に見ながら、メインロードの石段に戻ります。石段を下りながら、ふと、横を見ると右手に「アフロ仏」↓(五劫思惟の阿弥陀如来)、その前に「泣き顔地蔵」↓もいらっしゃいます。  

あとは、石段を下りきれば帰り道です。御影堂に戻って、法然上人座像や吉備観音を拝んで帰りましょう。

おさらいMAP

《地図引用:Map Fan

最後に・・・

 毎年7月20日の命日には、黒谷で「米川常白顕彰会」による「常白忌」墓前供養が行われています。

 米川常白自身は、志野宗信の正統を受け継ぐ伝授者ですが、彼の没後、どのようにしてあれだけ隆盛を誇っていた「米川流」が香道の系譜から消えていったのかは「謎」でした。しかし、調べていくうちに、米川家末代の米川一敬(宝暦十三年没)にも弟子がいたようなので、彼の死後から100年ほどは家伝「米川流」も守られていたようです。また、常白から7代の系譜を隔てた江戸の香人である叢*香舎(すきょうさ)春龍も宝暦から天明年間まで「米川新流」を伝授してたくさんの伝書を残しています。さらに、その弟子の*香舎了空は、奇しくも米川家断絶の年である「宝暦十三年癸未首夏」(1763年)に著した『香道峰の月』の中で「志野流米川正統 岡了空」と自署しています。このように米川流は、突如消えてしまったのではなく、自然の成り行きで歴史の中でしだいに埋没してしまったようです。

 現在、表立って「米川流」を標榜する流派はないため、皆さんの中には初めて耳にする方もいらっしゃるかもしれませんが、現在の諸流においてなされる伝授の多くは、彼の『新義』を基礎にして成り立っている」と言っても過言ではないと思います。

 京都においでの際は、是非「伝説の香人」の墓にお参りください。

(「叢*」は草冠に「取」と書く字)

《参考文献:翠川文子著 川村短期大学研究紀要(2002.3)『香人・米川常白伝考』

 

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