十一月の組香
源氏物語を題材にした最もポピュラーな組香です。
登場人物の相関を知るほど味わいが深くなるのが特徴です。
説明 |
香木は、4種
要素名は、
香名と木所は、景色のために書きましたので、要素名に因んだものを自由に組んでください。
「斎院」「斎宮」「野宮」「ウ」は、
そのうち
「ウ」は2包つくり、
もう1包の
手元に残った
本香は、2炉
答えは、要素名をメモしておき、
下附は当れば「皆」(2点)、片当りは点数(1点)で書き記します。
晩秋から初冬を迎えるこの時期となりますと、各地で初霜や初雪のニュースを耳にするようになります。休日の晴れ間ともなりますと、身体いっぱいに陽の光を浴びて、ぼんやりと空行く雲でも眺めたくなります。また、夜は夜で空気が澄みきって月影も冴え、肌寒いことを除けば物思いに適した環境を提供してくれます。そんな月を見て、なぜか「六条の御息所」を思い出してしまいました。
今月は、「野宮香」(ののみやこう)をご紹介しましょう。
皆さんは、この組香の証歌や要素名、聞きの名目を一瞥しただけで、源氏物語の「葵」から「賢木」の帖に綴られているエピソードを主題としていることにお気づきのことと思います。
まず、物語を語る前に一般的な「斎院(さいいん)」「斎宮(さいぐう)」「野宮(ののみや)」という言葉の説明を加え、理解を深めたいと思います。
「斎院」
とは、中古、天皇即位の時、賀茂神社に奉仕するため天皇一代ごとに交代した未婚の内親王または皇女のことで、別名「いつきのいん」とも言われます。「斎宮」
とは、伊勢神宮に奉仕した未婚の内親王(皇女・女王)のことで、別名「いつきのみこ」とも言われます。天皇の即位の初めごとに1人が選ばれて、精進潔斎の後、伊勢に下向(げこう)し日本古来の神秘的で神聖な存在として、天皇の在位期間を伊勢で過ごしました。斎宮の制度は、崇神天皇の時に始まると伝えられ、鎌倉末期の後醍醐天皇の時代に廃止されたそうです。「野宮」
とは、一般的に宮城(きゅうじょう)の外にあり、極めて素朴な構造だったところからそう呼ばれた潔斎所(けっさいじょ:心身を清めるための宮殿)です。賀茂神社
伊勢神宮
次に、源氏物語に「野宮香」の要素名と聞きの名目を当てはめて、
組香を説明するためのあらすじを作ってみましょう。[桐壺の帝が譲位し、朱雀院の帝が即位して新しい伊勢の
斎宮に選ばれたのは六条の御息所の姫宮でした。そのころ、加茂の斎院も交替となり、新しい斎院は朱雀院の帝の妹宮(弘徽殿女御の女三宮)となりました。この斎院の御禊(ごけい)の式には光源氏も近衛大将として参列するというので、六条の御息所も忍んで見物に出かけました。葵の上は当時身重の身体だったのですが、急遽見物に行く事を決めたので、一条大路に連なった見物の車の列に左大臣家の威光を笠に割り込みを決め込みました。そのとき、頑として場所を譲らなかった六条の御息所の車との間で車争(くるまあらそい)が起こり、葵上の家来たちから悪口を浴びせられ、後ろへ押しのけられ、果ては「榻(しじ)」をへし折られたということで、プライドの高い六条の御息所は大きな屈辱を受けてしまいます。斎宮の伊勢下向の日も近づき、母の御息所も何となく心細くなっていたころ、光源氏は、
野宮を訪れます。あまりに久しぶりで、何を言って良いのやら言葉を掛けるのも気恥ずかしかったので、傍にあった榊(さかき)を折って御簾の中に差入れ「この榊葉の変わらぬ色(心)を頼りにして、禁制の神垣を越えて参りましたのに、さもよそよそしくなさいますとは(薄情な)」と申しますと、「神垣はしるしの杉もなきものをいかにまがえて折れる榊ぞ」(ここには人の訪ねる目印の杉もないのにどう間違えて折って持って来た榊なのでしょう?)と御息所は詠じます。この歌に光源氏が「乙女子がいる辺りだと思うと榊葉が慕わしくて探し求めて折ったのです」と歌を返します。]この
「乙女子が・・・」の歌が「野宮香」の証歌となっています。さて、この組香の構造を解釈する上では、やはり要素に現われていない
「光源氏」と「六条の御息所」という登場人物を意識しない訳には行かないでしょう。要素名の「斎院」と「斎宮」に物語上の直接関係はなく、「加茂の斎院の御禊」⇒「車争」⇒「斎宮の御禊」⇒「六条の御息所の野宮への同行」⇒「源氏が差し出した榊」という一本の線の上でしか交わらない関係だからです。「斎院」と「斎宮」は、聞きの名目の「榊」と「車争」という言葉を欠いては、この組香のなかで同居することはできないと思います。次に、「斎院」「斎宮」「野宮」に試香があるのは、あらかじめ
「既知のもの」として取り扱うための手法です。それでは、これらを「既に知っていた人」とは誰でしょうか。私は、これを「六条の御息所」と見ています。組香の作者は、連衆様をこれらの事物に直接関与した「六条の御息所」に見たてて、一連の物語を思い出させようとしていたのではないでしょうか?(この仮定は「光源氏」でも成り立ちますが、光源氏の場合は「斎宮⇒御禊」への関与が薄いように思われます。)続いて、「斎院」「斎宮」「野宮」の3つの要素は、
「ウ」という「何だかわからないもの」と打ち交ぜられて、そのうち1つだけ引き去られます。このことは、連衆様に思い出していただきたいエピソードを抽出し、一連のストーリーから際立たせる手法だと思います。引き去られた1包はさらに「ウ」(客香)という
「何だかわからないもの」と打ち交ぜられて焚き出されます。この「ウ」とは一体何を表すのでしょうか?多くの場合、要素名の「ウ」は他の要素と「合体して聞きの名目を決定する要素」として使われることが最も一般的です。「野宮香」の「ウ」もこのような効果を期待して組まれており「斎院+ウ=加茂」と二身一体で1つの答えとなります。それでは、作者は何故「ウ」に要素名を与えなかったのでしょうか?おそらくは、この組香の物語の広がりや複雑な要素の繋がりを表現するのに、具体的な事物を上げては都合が悪いところがあったからではないかと思います。蛇足ですが、
私が敢えて「ウ」に要素名をつけるとすれば、香名にも書きました「出車」となると思います。聞きの名目については、あらすじから見て取れると思いますので説明を省略しますが、「斎院⇒加茂」「斎宮⇒御禊」「野宮⇒榊」にもすべて「車」という道具立てが介在していますし、何よりも「ウ+ウ=車争」に至っては「ウ」を「車」に見たてざるを得ません。答えは、香の出の順番に関わらず、2つの要素をあわせて1つの聞きの名目で答えます。実はこのことによって、
季節感も夏(加茂の御禊)から晩秋(野宮の榊)まで変化することになり、この組香はあまり季節を問わず用いられます。私がこの時期に「野宮香」を取り上げたのは、光源氏が野宮を訪ね、六条の御息所に榊を手渡し証歌を詠じたのが、「9月7日(旧暦)」となっていますので、若干「月遅れ」の感もありますが、今月に取り上げてみました。点数は、当りの場合は2点をポイントし「皆」(または「叶」)と下附します。これは、
2つの要素をあわせて1つの答えとする組香の一般的なやり方です。「1つ当りの場合は、一点と書く」という注書もあるのですが、全てに「ウ」は含まれており、必ず1つは当る組香なのですから「どうかなぁ?」と思っています。何か「無点」を出したくない作者の意図があるのかもしれませんが、そこまでは浅学のため考えが及びませんでした。最後に私が「連衆様を六条の御息所」と言い放ってしまった関係上、少し彼女のイメージ向上のために一筆を加えたいと思います。六条の御息所は、前皇太子の御后(前坊の北の方)で、身分も教養も高く心の深い方でした。「葵の上」が光源氏の正妻第1候補とすれば、それを争うに値する第2候補だったのですが、奥ゆかしいばかりに生涯光源氏の正妻となることはありませんでした。「車争」が契機となり「もののけ」となって「葵の上」を苦しめても、そういう自分を疎ましく思っておりましたし、自ら伊勢に下って衆生の穢れを一掃しようともしています。「野宮」で再開した後、二人がどのような会話をして「暁の別れ」に至ったのかは物語に記述がありませんが、その内容がわかれば、もっと良く六条の御息所の心根が分かったのかもしれません。しかし、結局は「芥子の匂い」のとれぬまま、「葵の上」を取り殺し、死霊となった後も「紫の上」を取り殺し、「女三宮」を出家させるまで実に25年間も光源氏の最も大切な女性に祟り続けることとなってしまいます。
私は、その原因を一言で言い捨ててしまえば、7歳年上の
「年増の引け目」ではないかと思っています。もともとは自分の心根の弱さからいろいろな場面で気高く奥ゆかしく身を引いて見せて、光源氏を待ちますが「・・・来ない。」光源氏と芯まで打ち解けなかったことに対する彼女自身の思い煩いが、思わぬ人生の悪循環を生んだのではないかと思っています。
「変わらない心に導かれて禁制の垣根も越えて参ったのに何とも薄情な」から
「明け方の別れにはいつも涙に濡れたが今朝の別れは今までにない涙に曇る秋の空ですね」
・・までの間に男と女の機微が隠されているのでしょうね。
組香の解釈は、香席の景色を見渡すための一助に過ぎません。
最も尊重されるものは、皆さん自身が自由に思い浮かべる「心の風景」です。
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