二月の組香
和歌の句を分解して要素とした基本的な組香です。
同句を織り交ぜてランダムな景色を作り出すところが特徴です。
説明 |
香木は4種用意します。
要素名は、「難波津(なにわづ)に」「冬ごもり」「今は春辺(はるべ)と」と「咲くやこの花」です。
香名と木所は、景色のために書きましたので、季節や組香の趣旨に因んだものを自由に組んでください。
「難波津に」「冬ごもり」「今は春辺と」「咲くやこの花」は、各2包作ります。(計8包)
「難波津に」「冬ごもり」「今は春辺と」各2包のうち1包をそれぞれ試香として焚き出します。
残った「難波津に」「冬ごもり」「今は春辺と」各1包に「咲くやこの花」2包を加えて打ち交ぜて焚き出します。 (計5包)
本香は、5炉回ります。
答えの書き方は、要素名となっている句を香の出の順番に書き記します。
下附は、全問正解の場合は「皆」、その他は点数で記載します。
寒が過ぎて立春ともなりますと、あっと言う間に花を迎える季節ですね。
我が家では、節分の豆まきで鬼を払い、立春の日にはお雛様を飾ります。光満ちた座敷で我が家の女性陣は、大事そうに箱を開け、人形を取り出し、被り物を取ってホコリを払い、「あっちだこっちだ」言いながらひな壇に飾りつけています。もとより、「薀蓄ずきの男親」など出る幕のない作業ですので、隣の部屋から覗いていますと、いつのまにかホコリを払うのは妻、位置を指示するのが長女、人形を置くのが次女と役割が決まってしまったようです。これから雛祭りの翌日までの約 1か月間は、私の香道具もオプションに飾られて華を添えることとなります。
さて、正月に百人一首を取り上げましたところ、その後、テレビで連続ドラマ「かるたクイーン」や趣味講座「百人一首」等が放映され、期せずして百人一首ブームの到来を予感させています。そこで今月は、「小倉香」続編として百人一首かるた会の序歌(じょか)として詠われている
「難波津に・・・」の歌をテーマにした「這花香(このはなこう)」香をご紹介いたしましょう。この組香は、三條西公正氏著の「組香の鑑賞」に
「(百種香之記)」と出典が示されているもので、もともと梅の季節である2月頃によく使用される組香です。「這花」を「このはな」と読むことは、秘伝ではありませんがあまり知られていないようです。「這」の字は、訓読みで「この」と読むこともあり、形声文字で「むかえる」ことを意味しています。つまりは、「花を迎える香」という意味もあり、この季節にはふさわしい組香と言えましょう。組香としては、単純に証歌の句を分解してシャッフルするだけですので、初心者の方にも馴染み易い構造となっています。今回は、構造についてあまり言を弄しても仕方がありませんので、証歌について詳しく説明したいと思います。
「難波津に・・・」
の作者は、王仁(わに:生没年未詳)と呼ばれる百済の学者で、応神十六年(西暦285年)に応神天皇の招聘に応じて来朝し、日本に『論語』や『千字文』を伝来するとともに、宮廷に遣え読講等を行っています。この歌は、醍醐天皇の命による最初の勅撰集である『古今和歌集』の仮名序(西暦905年成立)において「安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに(万葉巻16)」とともに「和歌の父母」とされ、以下のようなエピソードと「子供の手習い始めにこれを習うこととなっていた。」ことが説明されています。「応神天皇の崩御後、皇太子であった菟道稚郎子(うじのいらつこと)とその兄であり補佐役だった大鷦鷯尊(おおささぎのみこと:後の仁徳天皇)が3年もの間お互いに皇位を譲り合っていた。皇位の空白が長く続くので、遂に菟道稚郎子は『自分が長生きしていると天下の混乱を招く。』と兄の即位を願って自ら命を絶ったため、やむなく大鷦鷯尊が即位し仁徳天皇となった。」(仁徳天皇の即位は、西暦313年1月3日とされています。)その際に王仁が大鷦鷯尊にこの歌を献ったとされており、大鷦鷯尊が「難波津」に住んでいたため、仁徳天皇の即位を予見した歌として崇められたということです。元の歌は万葉仮名で、「難波津爾 咲耶此花 冬籠 今乎春部止 開哉此花」と表記したようです。意味は、「難波津に、花が咲いたよ。冬ごもりしていたが、今やっと春になったと、咲いたよこの花が。」と直訳できますが、この歌の詠まれた皇位継承の物語を知ると、なかなかに含蓄の深い歌と言えます。また、平成10年11月に徳島市国府町の観音寺遺跡から
「奈尓波ツ尓作久矢己乃波奈」と万葉仮名で書いた長さ16センチ、幅4.3センチ、厚さ0.6センチの木簡が出土されたことがありました。今まで、和歌を万葉仮名で書いた現存最古の例は、法隆寺五重塔の「奈尓波都尓佐久夜己」という天井板の落書きで、年代は平城遷都(西暦710年)の頃と推定されていましたが、観音寺遺跡から見つかった木簡は、7世紀後半(西暦680年頃)と推定され、明らかにこれよりも時代を遡ることがわかりました。また、この木簡は、「役人の手習い」に書かれたと見られ、万葉仮名が畿内のみならず、地方にも広まっていたことを示す資料として当時新聞の一面を飾る話題となりました。更に今日では、
百人一首の試合(社団法人全日本かるた協会)の前に序歌として詠みあげられ有名になりました。公式序歌は、万葉集や和歌史の研究で多大の業績をあげた国文学者の佐々木信綱氏(1872〜1963)が選定したとされています。(なお、現在、活躍中の歌人佐々木幸綱氏は信綱氏の孫にあたります。)ただし、百人一首の試合では、序歌の「難波津に」は、下の句を
「今を春辺と」と読みますが、「今を」と読むのは、「序歌の下の句は2回読む」というルールがあるため、下の句を繰り返した際に、「『今はただ・・・ひとづてならで・・・』が最初の札として読まれた!」と誤解を与えないように変更されているとのことです。国歌大観の中に「今を」と表記されているものは、 『竹園抄』、『伊勢物語古注』(どちらも鎌倉時代の出典)に例を見るのみですので、本来は「今は」が正当でしょう。このため、今回は香書の出典に関わらず、証歌も「今は」と表記しています。次に要素名について、補足しておきましょう。
難波津・・・「難波」は大阪市及びその付近の古称で、「難波津」は
咲くやこの花・・・「この花」は、古今集仮名序に添えられた古注には
「梅の花を言ふなるべし」と明示されており、このため、「這花香」は梅の季節である初春に用いられることとなっています。前述のように仁徳天皇を暗示しているとも考えられます。また、この花については「木の花」という説もあります。冬ごもり・・・これは、即ち
「冬篭り」です。3年間皇位が決まらなかったことを暗示するとも解釈されます。また、万葉集では「春」の枕詞にも用いられているため、特別に訳さなくても良いとも考えられます。今は春辺と・・・前述のとおり「今を」を「今は」に書き改めています。
この組香の
構造上の特徴と妙味は、2句目と5句目とが「咲くやこの花」という同一句の繰り返しになっているところにあります。以前「時雨香」のコラムに「単に句を分けてシャッフルしただけでは、景色に矛盾が生ずる場合がある」とコメントしたことがありますが、この組香では、各句の景色に統一感があり、どの要素をどのような順序に並べてもほとんど矛盾はおきません。EX:「冬ごもり」「今は春辺と」「咲くやこの花」「難波津に」「咲くやこの花」
EX:「咲くやこの花」「難波津に」「咲くやこの花」「今は春辺と」「冬ごもり」
強いて言えば最後に「冬ごもり」が出ると今一つ達成感のない景色になりますが、その場合は「春の枕詞」として取り扱えば、「春辺」と解釈することができます。このような繰り返し形式は、天武朝(7世紀後半)頃までの古歌にしばしば現われる特徴ですが、「難波津に・・・」の歌の場合、
「咲くやこの花」という他句との繋がりの良い句を繰り返すことによって余分な景色的要素を減らし、統一した景色を形成しやすくしているところが、この組香を出色のものとしていると思います。2句目と5句目の
「咲くやこの花」は、組香上2包の「客香」として使われています。客香としているのは、「仲春の梅の花」として珍重すべきものと意識してのことでしょう。基本的にこの組香は、ランダムな句の羅列から生まれる多様な景色を味わうことが主旨となっていますが、「2つの梅の花を探す組香」として解釈され、取り扱われている場合も多いものです。しかし、私は「花を迎える」には前述のように「仁徳天皇を迎える」という暗示があるのではないかと思っています。およそ、「梅の花」を題材にした組香は、そのほとんどが「探梅」というイメージで心遊ばせるものなのですが、「這花香」については、「梅の花の景色」のみで片付けるにはもったいない意味の広がりがあると思っています。答えは、要素名を出た順番に書き記しますので、その時点で既に各自の手記録紙には
「新しい歌」が詠まれているわけです。香記にはその歌が記録され、連衆の答えの違いによりいろいろな歌(景色)が味わえます。本来、香記は「香席の記録」としての機能が主ですが、「組香に込められた作者の意図や香席の雰囲気を映し出す」機能もあります。このような意味では、「這花香」のように句を分割して作った組香は、最も端的に「香記の景色」というものを理解させてくれます。これは、一面「福笑い」の鑑賞に似た面白さがあり、座を和ませてくれることもあります。下附は、全問正解は「皆」、その他は当り数(客香は2点)によって点数で表します。
「此花香」と記載されている別組では、「探梅的要素」が強く演出されています。香記にも「最初の『此花』が当ったら証歌の上の句を、後の『此花』が当ったら証歌の下の句を、両方当ったら証歌全部を下附の上に添える。」となっており、梅の花を探し当てたことに対する褒賞として下附と答えの間に証歌が付記されます。最後に地元のことなので余談ですが、
「安積山」の歌は、陸奥国前采女(みちのくのくにのさきのうねめ)が詠んだとされています。伝説では、「朝廷の巡察使 である葛城王(かつらぎおう)が陸奥国安積の里(現在の福島県郡山市)に派遣された時、冷害が続き国司らの供物やもてなしが不十分たったので、王は心中喜ばず、酒席の用意ができても盃を受けようとしなかった。この時、以前采女であった里長の娘春姫が左手には盃を捧げ、右手には水を持ち、王の膝を打って『どうしてご機嫌が悪いのですか。安積山のふもとに、山の井の清水があります。山影を水面に映すそれは、浅い井戸のように思われますが、本当はとても深い清水です。それと同じで私たちが王をお慕いしている気持ちはとても深いものです。(どうかご機嫌を直して下さい)』と。この歌を詠み、それで王の心もなごんだ。」ということです。この伝説には、後日談として采女の悲恋物語があるのですが、この場はここまでといたしましょう。どちらの歌が「和歌の父」でどちらが「母」かということは、古今集仮名序には明らかにはされていないのですが、詠み人からして、
「難波津に」が父、「安積山」が母ということで良いような気がします。
王仁が歌で即位を促した仁徳天皇は、徳政により国を富ませ
仁徳天皇4年の春2月にこのような歌を残しています。
「たかき屋にのぼりてみれば煙たつ民のかまどはにぎわいにけり」
- 時を経て本年の御製 -
「我が国の旅重ねきて思ふかな年経る毎に町はととのふ」
組香の解釈は、香席の景色を見渡すための一助に過ぎません。
最も尊重されるものは、皆さん自身が自由に思い浮かべる「心の風景」です。
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