十二月の組香
百人一首でも有名な和歌をモチーフにした組香です。
「乙女」の香の出は答えの最後に書き記すというところが特徴です。
※ このコラムではフォントがないため「」を「*柱」と表記しています。
説明 |
香木は4種用意します。
要素名は、「天つ風」「雲の通ひ路」「吹きとぢよ」「乙女の姿」です。
香名と木所は、景色のために書きましたので、季節等に因んだものを自由に組んでください。
「天つ風」「雲の通ひ路」「吹きとぢよ」は、それぞれ5包、「乙女の姿」は1包作ります。(計16包)
まず、「天つ風」「雲の通ひ路」「吹きとぢよ」のそれぞれ1包(計3包)を試香として焚き出します。
残った「天つ風」「雲の通ひ路」「吹きとぢよ」の計12包を「3種2包ずつ」2組に分け置きます。
つぎに、そのうちの1組(「天つ風」「雲の通ひ路」「吹きとぢよ」各2包=6包)を打ち交ぜて焚き出します。
本香A段は、「一*柱開(いっちゅうびらき)」で6炉廻ります。
「一*柱開」とは、香の最後にまとめて答えを書くやり方ではなく、香札等を使用して「香炉が1炉廻る毎に1回答えを投票」するやり方です。
さらに、本香B段では、残った1組(「天つ風」「雲の通ひ路」「吹きとぢよ」各2包=6包)に「乙女の姿」1包を加えて計7包を打ち交ぜて焚き出します。
本香B段は、「一*柱開」で7炉廻ります。
本香は、全部で13炉焚き出します。
答えは、1炉ごとに要素名に対応した香札を投票します。
記録は、A段についてはそのまま書き記しますが、B段で「乙女の姿」が出た際には、そのまま脇に置き、最後の香が出終わった後に13番目の答えとして香の出を書き記します。
下附は、全問正解は「全」、その他は点数を書き記します。
「冬の風」を皆さんは何色にイメージなさるのでしょうか?
私の場合は、「空色の透明で下に行くにしたがって白さを増すグラデーション」という感じでしょうか。冬の風は、指の間を通り過ぎるとき、一瞬だけ形を成して「ガラスの欠片」のようになり、吹き過ぎれば、また透明に解けて行方知れずに拡散する感じがします。また、霜柱を踏む音は、何故か「秋の落葉焚き」の香りを思い出し、靴の底からは、埋もれていた「少年時代の朝の風景」が 、くすぶり出すように思い出されます。冬の風物は何故に懐古的イメージになるのか不思議です。因みに、冬の風の香りは変態すると私は感じます。最初は遠くで稲藁を焼くような香りで「冬が来たな」と気付きます。雪虫が飛ぶぐらいに季節が進むとその香りは落葉のような香ばしい甘さに変わります。そして、木枯らしが吹き、木々の葉がすべて無くなる頃からは、雪を噛んだ時のような若干埃っぽい水色の香りになります。
先日、映画「陰陽師U」を見ましたが、安倍晴明が神域に入るために巫女に扮して踊る姿(絵的には気持ち悪かったですけど・・・)を見たとき、ふと僧正遍昭の「天つ風・・・」の和歌を思い出しました。「天つ風・・・乙女の姿」は百人一首でも私の 「得意札」で、いつも右手の手前の段に置いています。一字決まりではないのですが、実相感入しやすい歌で昔から好きでした。僧正遍昭という男「乙女の姿しばしとどめむとは生臭坊主かい?」と思っていましたが、今回の調べで出家前の歌だということがわかりました。
今月は、冬の空に乙女の姿をしばし留める「替乙女香」 (かえおとめこう)をご紹介いたしましょう。
「替乙女香」は、杉本文太郎著の『香道』に記載のある組香です。「替」ということは、オリジナルの「乙女香」もあるだろうと思いますが、私の所持する伝書群の資料には、それらしいものが見当たりませんでした。唯一『香道蘭之園』に「乙女香」という同名の組香が掲載されていますが、こちらは『源氏物語』の「少女」の帖で「五節の舞姫を奉る番の廻ってきた光源氏が惟光の娘を召したが、息子の夕霧がこれを見て一目ぼれしてしまう」というストーリーを題材した十*柱香の盤物です。これには、立物(たてもの)として「天つ乙女の人形」が使われており、「舞姫に心引かれてしまう」ところなど、今回ご紹介する「替乙女香」と若干の共通点をみることが出来ますが、「御手洗川」「賀茂の瑞垣(みずがき:神社の垣根)」等、どちらかと言えば『源氏物語』の世界の中で遊ぶ趣向となっており、一概に関連性を認めることは出来ませませんでした。『香道』は、底本が志野流藤野家系の伝書であろうとの有力な説があり、『香道蘭之園』との伝書の系統性の違いから言っても、源氏物語の「乙女香」とは、同名の「別組」であるような気がします。今後、「天つ風・・・」を証歌とした「乙女香」が見つかることに期待しています。
さて、証歌である「天つ風・・・」の歌は、古今集巻17 (雑歌上)に「五節のまひひめ(舞姫)を見てよめる」と詞書があります。また、詠み人としては俗名である「よしみねのむねさだ」が記載されており、遍昭が在俗の頃の作と言われています。在俗の時、蔵人頭であった遍昭は、この華麗で優美な舞姫を天女に見立て「空を吹く風よ、天女の通う雲の中の通路を吹き寄せた雲で閉ざしてくれ。舞い終わって帰っていくこの美しい天女達の姿をもうしばらくここに留めて置きたいと思うから・・・。」と興奮と夢心地のうちに即興的にこの歌を詠んだのでしょう。この歌は、宮廷人の夢うつつな幻想美を代表した「耽美の歌」と評されています。
作者の僧正遍昭(西暦816-890)は、六歌仙で有名ですが、俗名を良岑宗貞と言い、桓武天皇の孫で従四位下左近衛少将安世の子となっています。仁明天皇に仕えて、従五位下左近衛少将となり、帝の寵を受け「蔵人頭」まで進みましたが、嘉祥3年(西暦850)天皇の崩御の際に「悲哀已まず、遽かに剃髪して、仏門に帰し、名を遍昭と改め」ました。後の光孝天皇は、その徳行を評価して、元慶3年(西暦879)に「権僧正(ごんのそうじょう)」に任じ、元慶寺(がんぎょうじ)を創立して座主となりました。その後、仁和3年(西暦887)に僧綱(そうごう)の最高位である「僧正」となり、寛平2年(西暦890)正月に75歳で没しています。別名に「花山の僧正」とも、「良僧正」とも言われています。
「五節の舞」(ごせちのまい)とは、毎年11月の中の丑の日から辰の日までの4日の間、朝庭で行われる儀式で奉られる舞であり、起源は、天武天皇が吉野の滝の宮で琴を弾かれた時に、前山に神女が現われて袖を五度翻して舞った故事によるといいます。儀式は、まず、丑の日に前もって公卿や殿上人、受領の娘の中から五節定めで選定した舞姫を宮中に召し、「帳台の試み」(舞稽古を見る儀式)をします。寅の日には清涼殿で殿上の「淵酔」( (えんずい:蔵人頭以下の殿上人に賜った酒宴。)、その夜、「御前の試み」(試舞を見る儀式)があり、卯の日には「童女御覧」(わらわごらん:舞姫の介添えの少女たちを御前に召す儀式)や「新嘗祭」 (にいなめさい)があります。
そして、最終日の辰の日には、「豊明節会」(とよのあかりのせちえ)の宴があり、今年の収穫した稲を神に奉り、天皇も臣下も共にこれを食べます。これは、「神と人とが共食する儀式」であり、今も神社などで行われている直会の起源とも言われています。この日、豊楽殿の前で正式に5人の舞姫が袖を翻して踊る「五節の舞」が演じられます。「豊明」とは「酒を飲んで顔が赤くなる」という意味、「節会」とは、「節日(せちにち)やその他の公事のある日に宮中で行われた宴会」のことで、この日には天皇が出御し、群臣に酒饌を賜りました。節会は、特に平安時代に盛んとなり、1月1日の「元旦」、1月7日に帝の前で白馬を引き回す「白馬(あおうま)」、1月16日に天皇と国家の安泰を祈って歌舞を奏する「踏歌(とうか)」、5月5日に騎射、競馬等を行う「端午」、そして「豊明」は、「五節会」として重視されていました。旧暦11月の中の辰の日は、今年ならば平成15年12月9日(火)、丙辰 、友引、 旧歴の11月16日ということになり、この意味で師走の組香としてご紹介できるのかなと思いました。
次に、この組香の要素名は、「天つ風」「雲の通ひ路」「吹きとぢよ」「乙女の姿」です。これは、和歌の五句を分解して要素とする基本的な組香パターンと同様ですが、唯一「しばしとどめむ」だけが、要素として現れて来ません。この理由は後述しますが、「しばしとどめむ」の句意を席中で現すのがこの組香の最大の特徴となっています。
この組香の構造については、まず段組を取っていることが特徴として上げられます。私は、「段組というものは、舞台変換の表現」ということを再三申し上げているところですが、今回この組香での舞台変換は、和歌の上の句、下の句の景色だと思っています。この組香は、見てのとおり証歌となっている「天つ風・・・」の歌以外の虚飾は何も纏っておらず、純粋に歌の世界を掘り下げて楽しもうとしている組香ですから、場面転換と言われてもこのぐらいしか思いつきませんでした。おそらく作者は、まず上の句の「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ」を用いA段で「五節の舞の舞台」の景色を連衆の心に留めさせ、次にB段でその舞台に「乙女の姿」を登場させることによって、憧憬やら恋慕やら感動といった詠み人の心を加えて、証歌全体の景色を形成したかったのだと思います。
ただし、そのために客香以外の各要素について2包の香木を各段で使い、本香の香数が13包もあるというのは、(試香包に載せるという方法はありますが・・・)本香盤の菊座の数から考えて現実的ではありません 。例えば、A段で「五節の舞の舞台」を形成するだけなら「香三種一包」でも可能です。B段も同様ですが、客香以外を三種二包とするとイメージを「反芻」するようなかたちになり、ちょっとお腹がいっぱいになるような気がします。昔の人もそう思ったのでしょうか、この組香には「後(世)香数多きに過ぐるとして、三種を三包宛、内一包試。『乙女』は同じく一包無試とするに至った。」という追記があります。このことによって段組を無くし、本香B段と同じ聞き方[(2*3)+1=7]で行うように変化したのか、段組を残して「乙女」以外の要素を各1包[A:1*3=3][B:(1*3)+1=4]で行うように替えられたのかは記載がありませんが、私としては景色の変化を残すため、後者で行った方が作者の本意を汲めるものと考えています。もしかするとこのことを含めた構造の簡素化を出典では「替」と表現しているのかもしれません。
この組香の最大の特徴は、記録上は「乙女の姿」が何処に出ても香の出の最後に書くというところです。普通 「一*柱開」は、「連衆が1炉聞いたら答えを提出し、香元は答えが集まった時点で香包を開けて香の出を宣言し、執筆はその答えをすぐに記録に書き記す」という流れを香の数だけ繰り返します。しかし、この組香では「乙女の姿」が出た場合のみ、脇に置いて答えの宣言も記録もしません。そして、すべての本香が焚き終わった段階で、最後に香元は香の出を宣言し、執筆はその結果を記録します。この「一旦脇に置く」という所作が「しばしとどめむ」の趣を表すとされているのです。このために 、最初、小記録の要素名から「しばしとどめむ」を除いておき、香席の中で下の句を完成させるという手法をとっているというわけです。また、本香が「一*柱開」となっている理由もこの辺に理由がありそうです。A段については、手記録紙に香の出の順に要素名をまとめて書いても構いませんが、B段では「乙女の姿」の香の出を一旦脇に置く必要があるため、回答はそれぞれ一炉毎に分離されている必要があったのでしょう。
最後に、この組香の記録は、各自の正解についてのみ記載します。つまり、全問正解 者には、13の要素名が記載され「全」が下附されますが、全問不正解だと名乗の下は空欄となります。その他は当った分の要素名が記載され点数が下附されます。勝負は最も点数の多い上席者の勝ちとなります。
天皇が天地の神に感謝して新穀や新酒を捧げ、五穀豊穣や国家安寧を祈って自らもこれを食する「新嘗祭」は、日本書紀に「皇極天皇元年(西暦642)十一月十六日」とあるのが初見となっており、古来11月の中の卯の日に宮中の伝統行事として執り行われて来ました。その後、明治以降に「新嘗祭」は毎年11月23日に固定化され、昭和23年から「勤労感謝の日」と名前が変わり「勤労を尊び、生産を祝い、国民が互いにに感謝し合う」国民の祝日となっています。
このことから考えると、「11月の組香」とすることもよろしいのでしょうね。
今年は「凶作」でしたが日本中で何不自由なく新米が食べられています。
平安時代の貴族も作物の恵みを天地神祇に感謝する儀式は欠かしませんでした。
飽食に溺れている現代の日本人は、もう少し敬虔な気持ちで食物を口にすることが大切ですね。
今年も1年ご愛読ありがとうございました。
良いお年をお迎えください。
組香の解釈は、香席の景色を見渡すための一助に過ぎません。
最も尊重されるものは、皆さん自身が自由に思い浮かべる「心の風景」です。
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