一月の組香

八代集をモチーフにした組香です。

下附に採用されている和歌が春の喜びに満ちています。

 

慶賀の気持ちを込めて小記録の縁を朱色に染めています。

説明

  1. 香木は、8種用意します。

  2. 要素名は、「古今集」「後撰集」「拾遺集」「後拾遺集」「金葉集」「詞花集」「千載集」「新古今集」です。

  3. 香名と木所は、景色のために書きましたので、季節や組香の趣旨に因んだものを自由に組んでください。

  4. お香は、それぞれの要素に付き2包作ります。(計16包)

  5. まずはじめに、各々1包を試香として焚き出します。(計8包)

  6. 残った「古今集」「後撰集」「拾遺集」「後拾遺集」「金葉集」「詞花集」「千載集」「新古今集」各1包を打ち交ぜます。(計8包)

  7. そこから、任意に5包引き去ります。

  8. 手元に残った3包を打ち交ぜて順に焚き出します。

  9. 本香は、3炉廻ります。

  10. 答えは、香の出の順に要素名で書き記します。

  11. 当たりは、合点で示します。

  12. 下附は、正解の数だけ、当った歌集名の「冒頭の一首(歌集番号1番)」を書き記します。

 

 新年あけましておめでとうございます。

 「冷夏の年は暖冬」とはよくいったもので、今年のお正月は暖かですね。

 お正月は、梅が枝に雪の花が咲いている景色も良いものですが、暖かな日を浴びてふくらみかけた蕾と枝に残った水滴に透かされる光の粒を見ながらの御屠蘇というのも良いものです。921は根っからの地下人(じげびと)ですから「家のしきたり」なんてものは、とおりいっぺんのものしか教えられなかった気がします。正月の儀礼というものは、結婚して初めて分かる両家のカルチャーギャップですよね。あまり違わない地方に住んでいても、夫婦で鏡餅の飾り方から、お雑煮の出汁まで違うのですから、関東人と関西人の夫婦というのはどれほどのギャップを埋めて行くのでしょうか?現代の若夫婦は、親と同居していなければ誰からも家伝を継承されないわけですから、どちらの家風にも染まることなく、適当に「新しい家風」を作ってしまいます。これが、寂しいとおっしゃる方も多いですね。「毎年、年末には実家に帰って、餅つき、お節料理作り、大掃除、年越し蕎麦、お歳とり、賀詞交換、お節料理、元朝参り等の一連の流れをおさらいする」という家族の定例イベントもあっていいかなと思います。「家を残す」と言うことは、財産も然りながら、家風やしきたり、文化と言った「口伝え」を生活の一部として普段何気なく伝承していくことがもっとも大変だと思いますね。

 さて、昨年の初夏、埼玉県の「遠山記念館」のお香の展示会に伺った際、展示室の真正面に飾ってあった香記の軸は、昭和の香道復興期の様子を物語る大変貴重なものでした。組香は「三代集香」、日付は昭和23年3月4日、開香筵は山本霞月宗匠の「汲月楼」、出香は山本霞月宗匠でお香には「柴舟」なども使われおり、執筆は三條西公正(尭山)氏と記載されていました。昭和22年12月に尭山氏の 宗家推戴式が行われていますので、それから半年もたたないホヤホヤの時代ですね。連衆にも奈良薬師寺橋本凝胤大僧正をはじめ、お歴々の名乗りが記載されており、皆で仲良く香席を設けていた時代が偲ばれました。

 その際に、遠山記念舘の学芸員さんから「三代集香」の出展を問われて調べてみましたところ、『香道志野すすき(下)』にそれらしい掲載がありました。そして、その次項に掲載されていた雅な組香が「歌集香」でした。本来、思い立った七月にすぐにでもご紹介したいと思ったのですが、季節感を待つために今まで暖めてきたというわけです。

 今月は、新春の喜びに満ちた「歌集香」 (かしゅうこう)をご紹介いたしましょう。

 まず、「歌集香」は、「八代集」の歌集名を要素名としたお香です。「八代集」とは、平安時代の国風文化の興隆に伴って、天皇または院の勅命や院宣(いんぜん)によって作られた「勅撰和歌集」のうち、最初の『古今和歌集』から順に『新古今和歌集』までの8つの和歌集を言います。そのため、この組香の香数は、8種(16包)となっており、それぞれの歌集に因んだ香りを当てはめることになります。8種ということは、所謂「五味六国」に新伽羅を加えた7種類でも全ての木所を違えようとすると香種が足りないことになりますので、香組の際に悩んでしまう方も多いかも知れません。最も簡単な対処方法は、作曾羅を白檀系と赤栴檀系の2種用いることでしょうか?また、「古今→新古今」「拾遺→後拾遺」等、名前に連綿を感じるものは同種の香で用いるというのも考えつきやすいところです。更に本当に雅趣と教養を楽しむならば、「情緒的」「装飾的」「牧歌的」など歌集全体の歌風に因んで香りを組んでみるのも良いでしょう。

 次に、この組香の構造は、最初に試香として全種8包を焚いてしまいます。このことは、勅撰和歌集の一代目から順に八代目まで、約300年間の時の流れを感じながら、それぞれの歌集を味わうことを意味するのだと解釈され、次に焚かれる本香以上に重要な意味を持つと思います。また、この時点では、八代集の顔見世として舞台を設けた段階なので、下附けとなる和歌を意識せずに「歌集」そのものとして味わう程度でいいでしょう。

 続く本香では、残った8種8包のお香のうち5包を任意に引き去り、残る3包を打ち交ぜて焚き出します。この所作が何を意味するのかは、実のところ不明ですが、私が思うに@『香道志野すすき』の前 項である「三代集香」の変異系としてさらにゴージャスな「八代集香」を創案し、それを「歌集香」と命名して、本香の数は前作の「三」に因んだ。A試香で8包も焚いているので、全体香数が多くなりすぎるのと、引き去りによる偶発性を期待して、本香は最少限の3包(全体香数11、捨香5)とした。B下附が当りにつき和歌一首を書き記さなければならないため、本香を3種に絞って煩瑣を避けた。以上のようなところではないかと思います。また、ここで取り扱う「三」は基本的には組香全体の規模を規定しているだけであり、難度と全体香数のボリュームに応じて増減しても良い数という考え方も成り立ちます。ただし、「八」は後世「末広がりでおめでたい」とされ、お正月にもピッタリの数ということにもなりますが、この組香の作られた当時は、基本的には「陰数」であり、正月の儀式として解釈しても「八卦」の「八」程度だった筈です。そのことを考慮すれば本香数は陽数を用い「陰陽和合」とすべきでしょう。

 答えは、香の出の順に要素名(歌集名)を手記録紙に書いて執筆に回します。 連衆は、小記録の提示がなければ、八代集の歌集名しか念頭にないのですから、おそらくこの時点まで、連衆は何故この組香が「新春」に取り上げられたのか理由がわからないことも有ろうかと思います。而して最後に香の出が香元から宣言され、記録に「下附(したづけ)」が付されると、その謎は解けるというわけです。

 下附は、それぞれの和歌集の冒頭の一首 目を書き記すことになっています。およその歌集は、部立(ぶだて)と呼ばれるテーマ毎の章があって、その最初の部は「春歌」となっています。そのため、冒頭の一首は、そのほとんどが「新春」か「立春」を詠んだ歌となります。『香道志野すすき』では、単に「壱の歌を記す」とだけ書いてあり、このことを意識したかどうかは、はっきりわかりませんが、書き記される歌は、必然的に「春一色」の景色となり、必然的に「春の組香」という取り扱いになります。

 以下、下附に記載される歌について簡単に説明を加えます。

『古今集 』

ふるとし(旧年)に春たちける日よめる  在原元方(もとかた)

「としのうちに春はきにけりひととせをこぞ(去年)とやいはんことしとやいはん」

 歌意は、「年内に(早くも)春が来てしまったよ。この一歳を(立春の今日からどう呼べばいいだろう?)去年と言おうか今年と言おうか?」ということです。旧暦では、立春と元日がほぼ同じ頃に来ますので、年によっては新年が明ける前に立春が来ることもあり、これを「年内立春」と言っていました。この中途半端な時期を捉えて西行や芭蕉をはじめ多くの和歌や俳句が読まれています。もっとも、正岡子規には、「先づ古今集といふ書を取りて第一枚を開くと直ち『去年とやいはん今年とやいはん』といふ歌が出て来る、実に呆れ返つた無趣味の歌に有之候。・・・・・・しやれにもならぬつまらぬ歌に候」と酷評されています。

 在原元方[生没年不詳]は、業平の孫で中古三十六歌仙の1人。最終官歴は正五位下に至ります。是貞親王家歌合・寛平御時后宮歌合・平定文歌合などに出詠し、古今集のこの歌が初出となります。

後撰集

正月一日、二条のきさい(后)の宮にてしろきおほうちき(大袿)をたまはりて  藤原敏行朝臣(としゆき)

「ふる雪のみのしろごろも(蓑代衣)うちきつつ春きにけりとおどろかれぬる」

 歌意は、「降る雪を防ぐ蓑代衣(ならぬ大袿を)賜り、それを何度も肩にかけつつ、(暖かい御厚情に)『我が身も春がきたことよ』と驚いているのでございます。」ということで、二条の后の恩寵が我が身に及んだ喜びを詠んだものです。

 藤原敏行[生年未詳〜延喜元年(901)]は、地方官や右近少将、蔵人頭を経て最終は従四位上右兵衛督となりました。三十六歌仙の1人で能書家としても名高く、古今集、後撰集等、勅撰集入集は計29首あり、百人一首の「すみの江の・・・」の歌でも有名です。歌風は、技巧性、繊細流麗、清新な感覚に富み、和歌史的には、業平から貫之への橋渡しをしたような歌人と言えます。詞書にある「二条の后」とは『伊勢物語』の在原業平との恋物語で名高い藤原高子のことです。

『拾遺集』

平さだぶん(定文/貞文)が家歌合によみ侍りける  壬生忠岑(みぶのただみね)

「はるたつといふばかりにや三吉野の山もかすみてけさは見ゆらん」

 歌意は、「春になったと、そういうだけで、(山深く、まだ雪に覆われている筈の)吉野山もぼんやりと霞んで今朝は見えるのだろうか。」ということで、春めいてきた喜びと期待が感じられる歌です。

 壬生忠岑[生没年未詳]は、和泉大将の藤原定国の随臣をはじめ卑官を歴任したことが『大和物語』に記されています。最終官位は六位摂津権大目と言われています。この歌は、平定文の歌合で詠い、藤原公任の『九品和歌』に最高位の「上品上」の例歌とされ、古来秀歌中の秀歌として有名です。三十六歌仙の1人で『古今集』の撰者にもなっており、百人一首の「有明の・・・」の歌でも有名です。

『後拾遺集』

正月一日よみはべりける  小大君(こだいのきみ)

「いかにねてお(起)くるあした(朝)にいふことぞきのふ(昨日)をこぞ(去年)とけふをことしと」

 歌意は、 「どのように寝て起きた朝だというので、特別に区別して言うのでしょうか?昨日を去年と今日を今年と・・・」ということで、客観的な時の観念と暦上の時間的な意識の違いを正直に歌った歌です。

 小大君[生没年未詳]は、三条天皇の皇太子時代に女蔵人として仕え、別称を三条条院女蔵人左近と呼ばれました。 拾遺集初出の歌人であり、三十六歌仙のほか女房三十六歌仙にもなっていいます。

『金葉集』 (二度本)

堀河院の御時百首歌めしけるに立春の心をよみ侍りける  修理太夫顕季(あきすえ)

「うちなびき春はきにけりやまがわ(山川)のいはま(岩間)のこほりけふやとくらむ」  

 歌意は、「春がやってきたよ。山の中を流れる川の岩と岩間に張っていた氷が今日解けるだろうか?」ということで、立春の喜びから解氷を連想した歌です。「うちなびき」は春に掛かる枕詞です。

 藤原顕季[天喜3年(1055)〜保安4年(1123)]は、歌道家六条藤家の祖となっています。白河院の信任が厚く、「別当」に任ぜられ、最終的に修理大夫正三位になりました。元永元年(1118)に柿本人麿の図像を祭り歌を献じ、その図像と歌学は子の顕輔に伝えられ、以後、歌道家として世襲されることとなります。歌は、後拾遺集が初出で金葉集(二度本)には 20首が掲載されています。

『詞花集』

堀河院御時百首歌たてまつり侍りけるにはるたつこころを読める  大蔵卿匡房(まさふさ)

「こほりゐししが(志賀)のからさき(唐崎)うちとけてさざなみよする春かぜぞふく」  

 歌意は「氷が張り付いた志賀の唐崎は、すっかり氷も解けてさざ波を打ち寄せる春風が吹いている。」ということでこれも立春の喜びから解氷を連想した歌です。志賀の唐崎は、現在の大津市唐崎(琵琶湖の西岸)にある歌枕で松と月の名所とされています。また、夏越祓(なごしのはらえ)や賀茂斎院退下の際の禊(みそぎ)の地だったそうです。

 大江匡房[長久2年(1041)〜天永2年(1111)]は、赤染衛門の曾孫です。神童の誉れが高く、16歳で文章得業生になり、以来、尊仁親王(後三条)、貞仁親王(白河)、善仁親王(堀河)と3代にわたって東宮学士を勤め、最終的には大蔵卿に任ぜられています。平安時代有数の碩学(せきがく)で、その学才は時に菅原道真と比較されたほどです。歌は、後拾遺集が初出で詞花集には13首が掲載されいます。  

『千載集』

春たちける日よみ侍りける  源俊頼朝臣(としより)

「はるのくるあした(朝)のはらをみわたせば霞もけふぞたちはじめける」  

 歌意は、「春がやってくる(朝)、朝の原を見渡すと、春とともに霞も今日は立ちはじめたことだよ。」ということで、春の到来を朝の原から眺望するめでたい景色を詠んでいます。「朝の原」は大和国の歌枕とされています。

 源俊頼[天喜3年(1055)頃〜大治4年(1129)]は、はじめ堀河天皇近習の楽人となりましたが、後に和歌の才も顕わし、堀河院歌壇の中心歌人として多くの歌合で判者を努め活躍しました。 白河院の命を受けて『金葉集』を編纂し、大治元年(1126)頃にかけ、3度にわたって奏上しています。歌は、新奇な題材に着眼して、奇抜な表現をし、当時の歌壇に新風を送ったと言われます。

新古今集』

はるたつこころをよみ侍りける  摂政太政大臣 

「みよしのは山もかすみて白雪のふりにしさとに春はきにけり

 歌意は、「吉野山は山も霞んで昨日まで白雪が降っていたこの里にも春は来たことだ。」ということで、寂れた古京の山野に訪れた明るい春を詠んでいます。この歌は、拾遺集の「はるたつと・・・(壬生忠岑)」の歌を本歌取りしたものとされています。「本歌取り」とは、和歌、連歌などを作る際に、すぐれた古歌や詩の語句、発想、趣向などを意識的に取り入れる表現技巧で新古今集の時代に最も隆盛し、その特徴ともなっています。

 九條良経(よしつね)[嘉応元年(1169)〜建永元年(1206) ]は、幼少期からすぐれた学才をあらわし、千載集には十代の作が7首収められています。藤原俊成を師とし、従者の定家からも大きな影響を受け、叔父慈円の後援のもと、歌壇を統率するようになりました。やがて歌壇の中心は後鳥羽院に移りますが、良経はそこでも御子左家の歌人らと共に中核的な位置を占め、和歌所の設置に際しては寄人筆頭となり、『新古今和歌集』撰進に深く関与し、仮名序を執筆するなどしています。歌は、千載集が初出で、新古今集には79首が掲載されています。

 以上のとおり、詞書や歌意が察するとすべてが「新春」を捉えたものではないこともわかり、「正月一日」「春立つ日(立春)」という2点に集約されます。ただし、旧暦では、立春と元日がほぼ同じ頃に来ますので「正月≒立春」ということになり、現代ほどの時節の違いはありません。また、二十四節気に当てはめてみれば、「正月節=立春」ですから、基本的には、「初めて春の気配が現れてくる時期の景色」という点で、共通のものと捉えられていいでしょう。
 因みに現代において、「元旦」と「立春」が時期的にどのぐらい違うのかを換算してみますと、「元旦」は、新 歴:平成16年1月1日→旧歴:平成15年12月10日(旧歴:平成16年1月1日→新歴:平成16年1月22日)となります。年毎に異なる「立春」は、今年は平成16年2月4日21:00頃となっており、これに基づくと、新 歴:平成16年2月4日 →旧歴:平成16年1月14日、(旧歴:平成16年2月4日→新歴:平成16年2月23日)となります。

 最後に、試香を味わう際に歌集そのもののイメージを深めていただくために、八代集について概略を比較しておきましょう。

「八代集」比較表

歌集名 勅宣 撰者・成立 巻数・歌数・部立 主な歌人 歌風・特徴
古今和歌集

こきんわかしゅう

平安初期の最初の勅撰和歌集

延喜5年(905)

醍醐天皇

紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑

延喜13年(905)頃

20巻

1111首

四季、賀、離別、羇旅、物名、恋、哀傷、雑、大歌所御歌・神遊歌・東歌

在原業平、素性法師、伊勢、藤原敏行、小野小町(選者以外) 優美繊細で理知的・技巧的な歌風

 

後撰和歌集

ごせんわかしゅう

平安中期の2番目の勅撰和歌集

天暦5年(951)

村上天皇

大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城梨壺の5人)

天暦10年(956)前後

20巻

約1425首

四季、恋、雑、離別、羇旅、賀歌、哀傷

紀貫之、伊勢、藤原兼輔、凡河内躬恒 私的な贈答歌が多く、歌物語的な傾向

万葉集の影響

拾遺和歌集

しゅういわかしゅう

平安中期の3番目の勅撰和歌集

花山院

 

未詳

花山院を中心?

寛弘2〜3年(1005〜6)頃?

20巻

約1351首

四季、賀、別、物名、雑、神楽歌、恋、雑四季、雑賀、雑恋、哀傷

紀貫之、柿本人麿、大中臣能宣、清原元輔、平兼盛 「平淡優美」な歌風

古今・後撰集の長所の融合

後拾遺和歌集

ごしゅういわかしゅう

平安末期の4番目の勅撰和歌集

承保2年(1075)

白河天皇

藤原通俊

応徳3年(1086)

20巻

約1218首

四季、賀、別、羇旅、哀傷、恋、雑

和泉式部、相模、赤染衛門、能因法師、伊勢大輔 雑の部に神祇、釈教を新しく立て、叙景歌などに新風

拾遺集の遺漏を補完

金葉和歌集

きんようわかしゅう

平安後期の5番目の勅撰和歌集

白河天皇

[3度改撰]

源俊頼

天治元年(1124)

天治2年(1125)

大治2年(1127)

10巻

約665首

四季、賀、別離、恋、雑、(連歌19首)

源俊頼、源経信、藤原公実、藤原顕季、藤原忠通 客観的、写生的描写が多く、新奇な傾向

「二度本」が最も流布

詞花和歌集

しかわかしゅう

平安後期の番目の勅撰和歌集。

崇徳院

 

藤原顕輔

仁平元年(1151)頃

10巻

約415

四季・賀・別・恋・雑

曾禰好忠、和泉式部、大江匡房、源俊頼、花山院、道命法師 趣向のおかしさを調子よく詠い上げた歌風。

平安中期の歌を多様

千載和歌集

せんざいわかしゅう

平安末期の7番目の勅撰和歌集

寿永2年(1183)

後白河院

 

藤原俊成

文治4年(1188)

20巻

約1288首

四季、離別、羇旅、哀傷、賀、恋、雑、釈教、神祇

源俊頼、藤原俊成、藤原基俊、崇徳院、俊恵 抒情的な古今風と耽美的な新古今風

仏教的な和歌の取入れ

新古今和歌集

しんこきんわかしゅう

鎌倉初期の8番目の勅撰和歌集

建仁元年(1201)

後鳥羽院

源通具藤原有家、藤原家隆、藤原定家・藤原雅経

元久2年(1205)

20巻

約1978首

四季、賀、哀傷、離別、羇旅、恋、雑、神祇、釈教

西行、慈円、藤原良経、藤原俊成、式子内親王 繊細で優雅な調べ、耽美的・ロマン的・情趣的な傾向

幽玄・余情・妖艶

※ それぞれの歌数については、出展によって異なるので「約」としています。

 勅撰和歌集は、初代の古今和歌集から数えて拾遺和歌集までを「三代集」、詞花和歌集までを「六代集」、新古今和歌集までを「八代集」と言います。続く九代目の新勅撰和歌集から最後の新続古今和歌集までは「十三代集」と呼ばれ、「八代集」と合わせた総称を「二十一代集」と言います。ことからすれば、「歌集香」のうち最もシンプルな組香が「三代集香」であり、「六代集香」も創案の余地があります。また、最大値では、「二十一代集」を要素名とした「歌集香」も理論的には可能ですが、組香の全体香数を考慮すると現実的ではありません。やはり歌集名のネームバリューからしても「八代集」を以って「歌集香」とするのに必要十分と言うことでしょう。

 皆さんも、これを機会に和歌集を何冊か紐解いて、初春の気分を満喫されてはいかがでしょうか?

 

本年も稚拙なコラムでお目汚しですが、よろしくお願い申しあげます。

 

今年の歌会始の儀のお題「幸」に因んで・・・

皆様も「さきわふ」一年となりますようお祈り申し上げます。

背に負うて姉妹の笑みの重ね餅何気なき幸替えがたき幸 921詠

組香の解釈は、香席の景色を見渡すための1助に過ぎません。

最も尊重されるものは、皆さん自身が自由に思い浮かべる「心の風景」です。

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