五月の組香
端午の節句に行われる舟競べをテーマにした組香です。
競馬香と似たグループ対戦型の組香です。
|
説明 |
|
香木は、4種用意します。
要素名は、「一」「二」「三」と「客」です。
香名と木所は、景色のために書きましたので、季節や組香の趣旨に因んだものを自由に組んでください。
「一」「二」「三」は各4包、「客」は3包(計15包)を用意します。
連衆は、「左方(白帆)」と「右方(赤帆)」の二手に分かれます。
まず、「一」「二」「三」の各1包(計3包)を試香として焚き出します。
次に、残った「一」「二」「三」の各3包と「客」の3包(計12包)を打ち交ぜ、任意に2包引き去ります。(計10包)
本香は、「一*柱開」(いっちゅうびらき)で10炉廻ります。
※ 「一*柱開」とは、香札(こうふだ)等を使用して「香炉が1炉廻る毎に1回答えを投票し、香記に記録する」聞き方です。
本香1炉が焚き出され、これを聞き終えた客から順に試香に聞き合わせて香札を1枚打ちます。
※ 以下、14番までを10回繰り返します。
執筆は、打たれた香札を札盤(ふだばん)の上に並べて仮に留めておきます。
香元は、香包を開き、正解を宣言します。
執筆は、正解者の回答のみ記録し、傍点を付します。
立物は、双方の連衆につき、1炉当りを1点とし、「客」の当たりは、2点と換算します。(委細後述)
盤者は、双方の合計点分だけ香盤の「帆」を進めます。
盤上の勝負は、早く「勝負木」に達した方が勝ちとなります。
香が無くなるまで一*柱開を続け、そのまま記録上の勝負を決します。
点数は、1炉当りにつき1点、「客」の当たりは、2点と換算します。
下附は、点数で記載します。
最終的には、盤上の勝負の「勝方」のうち、最高得点者が記録上のの勝者となります。
みちのくの5月は一年の農作業の幕開けとも言える「田植え」で始まります。
私の職場でも心ある農家の子弟は「田植休暇」で帰省します。「メーデーも憲法記念日もこどもの日もずぅーと田んぼ仕事」らしいですが、今年のように中2日休んで9連休もあれば、家族総出の一大イベントを終え、温泉と草餅で「骨休め」もしっかりできるでしょうね。
田植えの時期は、専業農家に言わせれば「本来、水温の状態を見て、最適と決めた
一方、里の田植えは、「父親が田植機を運転し、息子が田植機に苗を補給し、お祖父ちゃんがその苗を運んで来る」という親子三代の連携プレーが基本的です。お祖母ちゃんは、田植機が植え残した田んぼの四隅の部分を手植えで補います。そこにお母さんが「小昼(こびる)」と称する「おやつ」を持って来て、畦道に広げて一家で車座になり小休止となります。昔は、赤ちゃんでさえ「いずめこ」に入られて田植えの鑑賞をさせられていましたので、赤ちゃんを車座の中心に据えて、意外に家族同士の会話も弾むものです。
こんな清々しい光景を見せながら、5月は意外にも「田植忌み」の月なのでした。「はしら〜の、きぃず〜は、おとと〜し〜のぅ〜♪」と端午の節句に行われる諸行事も、尚武を願う勇壮なものが多くありながら、その発祥は意外に「暗い」ものが多いのです。「5月大好き」の私としては、どうにも納得がいかない五節句と物忌みの関係は、「何も出来ないから伝承事でもしてストレス発散しよう」という気持ちの表れなんでしょうか?
今月は、中国伝来の端午の行事「競渡香」(けいとこう)をご紹介しましょう。
「競渡香」は、大枝流芳の『香道軒乃玉水(全)』に「新組香十品」として紹介されており、『御家流組香集(仁)』にも掲載のある組香です。基本的には、かの有名な「競馬香」からアレンジされた盤物の組香と思われ、「競馬香」が同じ5月5日の加茂神社の競馬神事を写した組香であるのと同様に「競渡香」は5月5日に行われる「競渡」という舟競べをテーマに作られています。
出典には、「もろこしに端午の日、渡りをあらそい、早く岸に船をこぎよせたるを勝ちとする戯れあり。これを競渡という。則ち古詩にも此の事を作れるあり。今、此の組香は、その事実によれり。」とあり、中国古来の行事を組香のテーマとして発想したもののようです。
まず、この「競渡」という行事の発祥から紐解いて行きましょう。古代中国において、5月は「悪月」とされ、日本においても平安時代ごろから「五月忌み」と言って物忌みの月とされていました。「端」は始めの意を表し、「端午(たんご)」とは、月のはじめの「午(うま)」の日を指します。このため、端午は毎月あるものでしたが、5月5日は「午(ご)」が「五(ご)」にも通じるため、もっとも忌むべき魔除けの日とされ、ヨモギで作った人形を門戸にかけて毒気をはらったり、馬から弓矢を射たり、菖蒲酒を飲んだり、「薬猟(くすりがり)」と称して薬草を競って摘み、それを臣下に配ったり、「競渡」と称して舟漕ぎ競走をするなど、ありとあらゆる邪気をはらうための行事が行われたそうです。
そのような数ある行事の中でも「競渡」に関しては、「屈原(くつげん)の自殺」が発祥であるという説が有力です。
「屈原」(BC340〜278)は、中国戦国時代の楚の貴族であり詩人で、祖国の振興に傾注した愛国者でしたが、当時の国同士の政治取引や君子の交代などにより数々の排斥や迫害に会い、「死は避けられないと知った。命を惜しんで躊躇しないようにしたい。はっきり世の君子たちに告げておきたい、私は愛国者の模範となろうとしているのだと。」という辞世の詩、「懐沙の賦」(身を沈めるために石をふところに懐く)を残して、汨羅(べきら)に入水自殺をした人物です。彼の残した長詩『離騒』『天問』『九歌』『九章』などは『楚辞』の主要部分として現在でも文学史上高く評価されており、世界的に有名な詩人の辞世の詩は『九章』に納められています。
「競渡」は、この屈原が入水した際に、「多くの船が競い漕ぎ出して彼を救おうとした」という説と、「彼の遺体を早く回収しようと捜した」という2説の故事によるともいわれています。
中国南部では、宋代以来、5月5日は屈原が自殺した日⇒端午の節句は「屈原を祀る日」としての諸行事が定着しました。その一つに「競渡」といって舟を漕ぐ速さを競う行事があり、今でも、極端に細長い舟に20〜30人が乗り、櫂を漕ぎ、銅鑼や太鼓ではやしながら競走する祭りが、上海、海南島などで盛大に行われます。また、長崎のペーロン競争については、明暦元年(1655)以降の行事で、長崎港に碇泊中の唐船が暴風雨に襲われて難破し、多くの溺死者を出した際、在留の唐人たちが、海神の怒りを鎮めようと競漕したことがはじまりとの説がありますが、これも屈原の逸話から唐人が連想したものと見られます。
まず、この組香の要素名は「一」「二」「三」「客」と匿名化されています。これは、お香を「点取りの素材」としてのみ考え、特別な景色を付けない「盤物」(ゲーム盤で遊ぶ組香)に共通して見られる特徴です。
香種は4種であり、これも十*柱香以来の古い組香の形式を踏襲しています。香数は「一」「二」「三」を各4包作り、各1包を試香として焚き出します。「客」は3包の試香無しですので、都合3+3+3+3=12包となります。ここから、任意に2包引き去って本香を10包とします。
一方、「競馬香」では「一」「二」「三」「四」を各4包作り、各1包を試香として焚き出して、本香を客香なしの12包とします。また、時間の関係で短くしたければ「打ち交へる際、其の二包を除いて十包とするもよい。」と記載のある伝書もあります。出典と同時期に版行された『香道瀧之糸(上)』の「競馬香」では、既に、「出香十二包打ちまぜて、内二包除き去りて、残り十包を焚き出だす。」に落ち着いており、引き去ることによって生ずる香の出のバリエーションの魅力とともに、香席時間への配慮が新組の「競渡香」にも現れたのではないかと思います。
次に、この組香は、連衆をあらかじめ二手に分けることとなっています。出典には「左右にわかれ聞くべし。」と記載され、「記録は競馬香に同じ。左方、右方と書くべし。」とされています。「競馬香」は「赤方」「黒方」に別れ、正しくは「左右」に分かれてはいないので、こちらも立物の色である「白帆(しらほ)」「赤帆(あかほ)」から「白方」「赤方」とすべきとも思いましたが、出典の指定どおり「左方(白
帆)」「右方(赤帆)」と称するのが相当と判断しました。これにより、組香は左右双方の「一蓮托生対戦型」で行われます。
この組香は「一*柱開」方式で香炉が廻ります。連衆は1炉ごとに試みと聞き合わせて、試香の「一」と同香のものは「一」の札を入れ、「二」と同香と聞けば「二」の札を打ちます。「客」については、試香で聞いたことの無いものを「ウ」の札を入れて回答します。これも盤物に共通している特徴ですが、自分の当否を1炉ごとに確認し、自方の立物の進みを見ながら一喜一憂してゲームに興じるという趣向です。なお、使用する「香札」については出典には何も書かれていませんが、要素名や香数から判断して特別の仕様は必要ないため「十*柱香札」を使用するものと思われます。
この組香は、「競渡香盤」というゲーム盤を使用して戦況を表す工夫がされています。香盤は20間(枡)2列で、立物が進んで行く溝が2本刻んであります。これは「競馬香」の盤とほぼ同一仕様であり、流用することが可能です。(競馬香では10間の盤を2枚使用します。)
立物は「勝負木(しょうぶぎ)」として「菖蒲(しょうぶ)」が使われます。 (駄洒落?)菖蒲は、もろもろの罪穢れを祓うものとして、端午の節句の発祥当時から欠かせない植物でした。これをスタートラインから15間目に立て、最初に越えた方が盤上の勝ちとなります。「競馬香」では「青楓」が勝負木に用いられますが、これと同じゴールの目印となります。
また、盤上を進む双方の「駒」は、「白帆」と「赤帆」です。出典の図を見ると溝に沿って滑るように合せた「板」に「マスト」を立て、「帆」の天辺に「旗」を立てた形をしており、船の部分はありません。この帆には、明時代の袁氏(えんし)の詩を書くこととされており、これが「古詩にも此の事を作れるあり。」の部分に対応しています。
下記に示しますが、詩の出典については、探し出せませんでした。
『競渡の詩』
平湖新漲滑如油(へいこあらたにみなぎりて なめらかにしてあぶらのごとし)
十丈紅旙繞樹流(じゅうじょうのこうはん じゅにめぐりてながる)
我有敝綈三両幅(へいていさんりょうふく われにあり)
也将裁去掛舩頭(またまさに さいしせんどうにさりてかけんとす)
また
碧酣樓下水平豁(へきかんのろうか みずたににたいらなり)
濯足池辺日正西(あしをあらうちへん ひまさににしす)
橋上橋下人如螘(きょうじょうきょうか ひとありのごとし)
只愁翻却孟公堤(ただうれう もうこうのつつみをはんきゃくせんとす)
※ ブラウザによって文字が化けることがあります。
ここで、帆に詩を書く以上、大きな帆は重要なのでしょうが、「競渡」というと現在でも「手漕ぎ」(ドラゴンボート)で行われていますから、所謂「ヨットレース」のような「帆船競渡」が行われていたのかは
疑問です。詩の中にも風を連想させるのは「旙」と「翻」くらいで、「帆」の必然性がどこから連想されたものかは解りかねました。しかし、双方の御旗として進むのは「白船」「赤船」よりも煌びやかな「白帆」「赤帆」の方がわかりやすかったのではと解釈しています。
立物の進め方は、「地の香」である「一」「二」「三」の当たりは1間、「客」の当たりは2間と計算して、その各グループの合計分だけ帆を進めます。独聞は「一人聞の差別なし」と記載があるなので加点要素にはしません。また、出典には「帆の上の旗、五間遅るれば抜き取るべし。追いつけばまた挿すべし。」とあり、「競馬香」の落馬ルールと同様の演出も用意されています。
出典には、これ以外に立物の進め方についての記載がなく、基本的に競馬香に準ずるものと解釈されます。ただし、これには全員が満点を重ねた場合、連衆が3名ずつでしたら、総得点分だけ立物を進めても(15間÷3=5炉)で最低5炉目までは盤の目が持つのですが、これが5名ずつとなると「始まって3炉目で盤上の勝負が終わってしまう」事態も想定されるという問題があります。
「競馬香」ではこれを「盤を継ぐ」という方法で回避する秘策を持っており、10間の盤を2枚使用して、馬が盤の端に行き着いてしまったら、後方の使わなくなった盤を前方に持ってきて継ぐことで、対戦を継続させる方法を取ります。競馬香の盤を流用するときは、この方法を取り、あまり早く盤上の勝負がついて興ざめしてしまうことを防ぐことができると思います。
また、20間の盤のため「盤継ぎ」ができないときは「舞楽香」の「消合(けしあい)」の方法を用いて、各グループの得点の差分だけ、勝ち方の立物を進めるという方法もあります。
例:「左方」総得点4点、「右方」総得点3点⇒「白帆」を1間進める。
最後に、 「勝負の菖蒲」を立物が越えて「盤上の勝負」がついても、お香が残っている場合は残らず焚くまで対戦を続けるというのが盤物のルールです。このため、「記録上の勝負」では、盤上で勝者となった方が、其の後、挽回されて敗者となる場合がごく稀にあり得ます。記録について、出典では「競馬香に同じ」と記載されていますので、香の出は要素名をそのまま記載し、各自の答えは当ったものだけ香記に書き記して、合点を掛けます。点数は「客」を2点、その他を1点と換算し、各自の合計点数を下附します。それを「左方」「右方」のグループごとに合計して勝ち点の多い方に「勝」と付します。記録上の勝負は、各自の最終得点で決定し、香記は「勝方の最高得点者 のうち上席の方」に授与されます。
端午の節句に食べる「粽」も屈原の死後の逸話から発祥しています。
楚の人々の投げ入れる米を蛟龍がみんな先に食べてしまうので・・・
屈原は妻に「蛟龍の恐れる楝(栴檀)の葉で包んで五色の糸で縛って欲しい」と夢でお願いしたらしいです。
組香の解釈は、香席の景色を見渡すための一助に過ぎません。
最も尊重されるものは、皆さん自身が自由に思い浮かべる「心の風景」です。
Copyright, kazz921 All Right Reserved
無断模写・転写を禁じます。