九月の組香
重陽の節句に長寿を願う組香です。
香盤に「百寿の図」をあしらっているところが特徴です。
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説明 |
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香木は3種用意します。
要素名は、「福」「壽」と「神仙」です。
香名と木所は、景色のために書きましたので、季節や組香の趣旨に因んだものを自由に組んでください。
「福」「壽」 は各4包(計8包)作り、「神仙」は1包作ります。(計9包)
「福」「壽」
のうち各1包を試香として焚き出します。
「福」「壽」 の各3包(計6包)と、「神仙」1包を打ち交ぜて焚き出します。(計7包)
本香は、「一*柱開」(いっちゅうびらき)で7炉焚き出します。
※ 「一*柱開」とは、香札(こうふだ)等を使用して「香炉が1炉廻る毎に1回答えを投票し、香記に記録する」聞き方です。
香元は、香炉に続いて、「札筒(ふだづつ)」または「折居(おりすえ)」を廻します。
連衆は、1炉ごとに試香に聞き合わせて、香札を1枚打ちます。
※ 以下、13番までを7回繰り返します。
盤者は、札を開いて、札盤の名乗(なのり)の下に並べます。
香元は、香包を開いて、正解を宣言します。
執筆は、香記の回答欄に正解者の要素名のみを書き記します。
盤者は、正解者の立物(たてもの)を所定の数だけ進めます。(委細後述)
下附は、所定の点法に応じて1点を「百歳」と換算して「○百歳」と書き記します。(委細後述)
「盤上の勝負」は、先に向こうまで行き着くか、7炉終わった時点で盤上の立物が最も進んでいる方の勝ちとなります。
「記録上の勝負」は、点数が多い方のうち、上席の方が勝ちとなります。
夜の主役が「風」から「月」に替わる季節となりました。
秋風が寒気を孕みますと練香「菊花」を畳む(調合する)のに良い時期となります。私は、「秘法?」に菊の花粉を練り込めるのですが、仕込みの時期には未だ菊が咲いていないので、大抵は花屋さんから仕入れたものを使うこととなります。花屋さんには、年中問わず「仏花」としての菊はありますが、なかなか私の琴線に触れる「可憐なもの」は見当たりません。また、品評会で見るような大輪の菊も「なぜか見ないなぁ」と思っていたら、大菊は手間がかかって、商品としては採算が取れないのだそうです。
大菊の栽培は、母が一時期没頭していたので、「確かに、あの手間に値段は付けられないかぁ」と納得しました。まず手始めは、菊鉢と針金を買い込み、玉土、腐葉土、篠竹は田舎ですので有り合わせのものを使い、苗はその道の先輩である叔父から分けてもらいましたので、初期投資は大それたものではなかったようです。一方、手間の方は越年した苗の幹に改めて新芽を「挿し芽」し、余分な芽は次々「芽かき」で選り落とし、枝を三本立てにして鉢に固定した篠竹に「誘引」し、茎の成長につれて篠竹に結びながら度々「芽かき」し、最後に選りすぐった蕾が膨らめば「輪台」を挿し込んで、やっと開花を待つのみとなります。その間にも「植え替え」やら「施肥」やら「水やり」やら・・・とにかく面倒が多かったのを覚えています。元来「めんどくさい」ことが好きな母は、その後数年間はこれに没頭して、夏はベランダを占領し、秋になると玄関が大菊の鉢でいっぱいになりました。私としては、咲いた菊の花と香りを愛でるのは好きだったのですが、約半年にわたる「丹精」という名の地道な作業と盆栽と同じ「矯正」のイメージ、そして何といっても夏に施肥する「油粕」の匂いが性に会いませんでした。
振り返ってみるとNHK大河ドラマ「樅の木は残った」(S45放映)の舞台となった隣町の城跡で「菊人形展」を開催することになり、これに併催される菊の品評会に端を発して、菊作りが周辺の町でブームになっていたようでした。「菊人形」は、福島県二本松市が東北のメッカで、山形県の南陽市が日本最古ということになっています。私は、年端もいかぬ頃に二本松に一度連れて行かれたことはありましたが、「隣町に菊人形が来る」というのは家族ともども非常に喜ばしいお手軽な行楽でしたので、早速見に行きました。
会場の門をくぐると、そこには菊の香りが一帯に漂っており、神域の霊気を浴びたような「凛」とした気持ちになりました。しかし、メインの菊人形は「大河ドラマ」「忠臣蔵」「勧進帳」「牛若と弁慶」のような時代物で、子供にはピンとこない題材だったことと、見栄を切ったような顔で「睨み」を効かす「首」の部分が小菊をちりばめた衣装から浮き立って、なんとも「気持ち悪い」感じがしたのを覚えています。しかし、この菊人形展は、どん底から這い上がった家族の久々のレジャーという意味合いを持ちましたので、皆それぞれに感慨深く、当時やっと手に入った「オリンパスペン」で何年かぶりの写真撮影をし、途絶えていた家族のアルバムの復興を喜んだことを思い出します。
菊人形は、江戸時代から盛んに行われた細工物なのですが、この人形細工に菊が用いられたのは、やはり生命力が強く、開花期間が長いことが重宝されてのことでしょう。菊花は「長寿」に擬えられており、人々はこぞって「長寿」を願います。昔ならば、同居の家族が扶養も介護もしてくれ、自分は隠居しつつも長老として敬愛され、機織でも薪拾いでも家族に対するなんらかの貢献ができる環境にあったため、「長寿⇒幸せ」の構図が成り立っていました。現在においても、こういう環境に恵まれた「幸せな人」が「長寿」を得ているケースが多いようです。
一方、核家族化の時代に幸せを享受できる「長寿」とは、経済力と健康と生きがいを伴うものでなければならないため、多くのご老人が「消耗し尽した人生を長らえる」ことに甘んじています。私は、十中八九こちら側の「予備軍」ですが、「愛」と「金」が無くとも「香道」いう「志」を得たことは幸いだったと思っています。これからも、頭と目と指の動くうちは、世上に細々とした生きた証を残していきたいと思っています。
二本松の菊人形は、今では「日本最大」を標榜して現在も続いていますが、日本三大菊人形の一角である枚方市も数年前に閉催となり、御多分にもれず隣町の菊人形も集客率の低下から一昨年の秋に37年間の歴史に幕を閉じました。昨年は、友人の粋な計らいで菊人形がなくなった城跡の麓の茶室で名残の「菊づくし茶会」が催され、小さな菊アート人形で迎え入れられて秋日のひとときを過ごしたものです。今年は、私が菊尽くしでおもてなしする番かなと思います。
今月は、重陽に菊花を進めて長生きを競う「長寿香」(ちょうじゅこう)をご紹介いたしましょう。
「長寿香」は、大枝流芳の『香道千代乃秋(下巻)』に掲載のある組香です。小引の題号の下には「双巒組」と記載があるので、三上双巒の創作したオリジナルの組香であることがわかります。「長寿」といえば、「重陽の節句」か「お正月」という季節感を感じられることと思いますが、この組香が「重陽」の頃の組香であることは、小記録を一瞥しただけではわかりにくいと思います。しかし、この組香に使用する盤立物を見れば一見して「秋の組香」であることが理解できると思います。今回はオリジナルの組香ですので『香道千代乃秋(下)』を出典として、筆を進めたいと思います。
まず、この組香の要素名は「福」「寿」と「神仙」となっています。これをみれば、なんとなく「福」と「寿」を積み重ねて、遂には「神仙」に至るというストーリーが感じられるかと思います。もう1つの手掛かりは、小引の本香数の注釈の部分に小さく「彭祖(ほうそ)七百歳をかたどる」と書いてあるところです。この記述から、「神仙」とは長寿で有名な仙人「彭祖」のことであることがわかります。
「彭祖」は、姓を籛(せん)名を鏗(こう)といい、長生きすることに深い関心を持って修行していたため、殷の末頃には既に七百歳を超えていたというのに、外見はまるで子供のようにに見えるという不思議な人物だったそうです。日本では、謡曲「菊慈堂」(枕慈童)等の登場実物として有名で、祇園祭の菊水鉾(室町四条上ル)の天王座にも「慈童」の舞姿(稚児の姿)で祀られています。
「彭祖」の故事については『太平記巻十三−龍馬進奏の事−』にこのように書いてあります。
周の穆王は、龍馬(たいへん優れた駿馬)を手に入れて、西天10万里の山川を一時に越えて中天竺に至り、釈尊から法華経中の「八句の偈」を賜りました。ある時、帝が寵愛して日々傍においていた「慈童」という童子が、過って帝の「枕」を跨いでしまいました。群臣の審議の結果、死刑にはならなかったものの、都から300里も離れた「酈県(てきけん)」という虎狼の巣食う深山に流されます。「この山に入れば生きて帰ること無し。」と聞いた帝は、彼を哀れに思い、ひた隠しにしていた「八句の偈」のうちの二句を密かに伝授して、「毎朝に十方を一礼して、此文を唱えなさい。」と言いました。
慈童は深山幽谷の底に流され、授けられた偈を毎朝唱えていましたが、「もしかしたら忘れてしまうこともあるかもしれない。」と思い、側に咲いていた菊の葉にこれを書き付けました。その後、この菊の葉の下露が僅かずつ落ちて、流れる谷の水に滴り、川の水がすべて天の甘露の霊薬になりました。慈童が喉の渇きをおぼえてこの水を飲むと、まるで甘露のようであり、どんな珍味にも勝っていました。これに加えて、天人が花を捧げて飛来し、鬼人が手をそろえて奉仕しましたので、「虎狼悪獣」の心配もなくなりました。
さらに、慈童は「換骨羽化」して仙人となったのです。これだけでなく、谷の下流の水を飲んでいた三百余軒の人々は、皆病気が治り不老不死の長寿を保ったのでした。こうして時代は移り、八百余年まで慈童は猶も少年の容貌のままで、老衰の体は見られませんでした。魏の文帝のとき、慈童は「彭祖」と名を変えてこの術を文帝に授けました。文帝はこれを受けて「菊花の盃」を伝へて、万年の寿を得ました。 これが「重陽の宴」です。
この故事から、「菊水は長寿の水」とされ、重陽の節句には菊の蕾に「被綿(きせわた)」をして、翌朝にその露で身体を拭いたり、菊の花弁を浸した「菊酒」を飲んだりする風習が現れたといいます。そのため、「長寿香」は「彭祖」をシンボルとして、連衆の長寿を祈る「重陽」の組香としての道具立てがなされています。この組香に証歌はありませんが、「彭祖」に関しては、『和漢朗詠集(巻上)』の「秋」の章−九日 付け菊−」の項に手掛かりとなる詩歌の景色がありますので、ご参照ください。
次に、この組香の香種は3種、香数は全体で9包、本香数は7包です。香3種は「福」「禄」「寿」あたりからの発想でしょうか?いずれ、本香数が7包なので複雑になり過ぎず据わりの良い数字かと思います。本香の「7包」については先ほどご紹介しました「彭祖七百歳をかたどる」の注釈がつけられ、彼の長寿に擬えたということがわかります。彭祖は、その後も生きていたらしいので、これは故事の一説を捉えたものと言えましょう。
この組香の構造は「福」を4包、「寿」を4包、「神仙」を1包作り、このうち「福」と「寿」はそれぞれ1包を試香として焚き出します。試香を焚き終えたら、残った「福(3包)」「寿(3包)」「神仙(1包)」を打ち交ぜ、合計7包を「一*柱開」で焚き出します。
また、この組香では、連衆の回答に専用の「香札」を用いることとされています。出典には「札の紋」として、札表は「福 三枚、寿 三枚、神仙 一枚、以上七枚一人分なり。七十枚にて十人分なり。」と記載されています。各自の名乗(なのり:香席上の仮名)となる札裏には「白菊(しらぎく)」「黄菊(おうぎく)」「紅菊(こうぎく)」「谷菊(たにぎく)」「山菊(やまぎく)」「露菊(つゆぎく)」「甘菊(かんぎく)」「霜菊(しもぎく)」「初菊(はつぎく)」「残菊(ざんぎく)」と色や場所、時期等に因んだ菊の名が連ねてあります。ここで、「甘菊」という名は一般語ではなく、この序列ならば、すんなり「寒菊」とされてしまいそうなところですが、「彭祖」の菊水の故事に因んで、敢えて「甘」の字を用いた作意が際立っています。
こうして、本香は「一*柱開」で7炉廻ります。 まず、1炉目が焚き出されましたら、続いて香元は「香筒」を回します。連衆は試香と聞きあわせて、これと思う要素名の書かれた香札を1枚、香筒に投票します。例によって、形の違った「控えの香筒」や「折居(おりすえ)」と交互に廻すことによって、香札を扱う連衆も盤者も順番を混同しなくて済みます。また、「札打ち」には、最初から、番号の書いてある「折居」のみを使用することもあります。
さて、この組香は、専用のゲーム盤を用いて、個人の成績によってコマを進める「盤物(ばんもの)」という形式をとっていますが、この組香に使われる「長寿香盤」について、出典には図が掲載されていませんでした。盤について、出典では「前五十文字朱、向五十文字金粉。以上百字、百寿の字を書くべし。」とあり、さらに文末に「百寿の図、世上、板行に多くあれば、今ここにあらわさず。求め考えて書くべし。」と記載があるのみでした。そこで、小引の記述を手掛かりに「求め考え」て、「百寿の図」(「壽」の字を百の字体で書き連ねた書画の題材)を描き、「十行、十間で真ん中から朱文字と金文字がかわるように」に盤面と配されるよう想像したものを復刻してみました。ただし、「百寿の図」には時代や地域により各種の様式があるため、一字一字を盤面に記載することはしませんでした。字体のバリエーションはネットで検索いただくこととして、ここではイメージのみご理解ください。
一方、「立物」については、出典に「菊花十本」とあり。下に「小札に札の紋書付け、いとにて結付くべし。菊は、千重、八重、一重、色々にてつくるべし。下に柄あり。図の如し。」とあり、各種の菊花をコマとして進める趣向がなされています。これは、とりもなおさず「重陽の節句」に擬え、さらに「菊合わせ」の様相も加味した趣向かと思います、また、「置物」として「彭祖人形一つ」と書かれており、さらに「図のごとし。前にをくべし。始終うごかず。」と書かれています。置物は、シンボルとして盤上を動かさずに用いる飾り物ですので、この時点で、香席の景色をみれば、間違いなくこの組香が「彭祖の長寿にあやかろうとして行う重陽の香」であることがわかります。
ただし、出典には「図の如し」が2回も出てきますが、板行の際の欠落なのか、下巻にも上巻にも何処にも図は示されていません。そのため、「十種菊」も「彭祖人形」もイメージで復刻しています。特に「彭祖」の姿については、「童子」の姿とすべきか「仙人」の姿にすべきか迷いましたが、「慈童」ではなく「彭祖」になってからの姿が適当かと思いましたので、中国の「三仙之図」から「彭祖」の姿を写してみました。
続いて、この組香の点法は出典に「客、独聞三点。二人より二点。常の香独ぎき二点。二人より当り一点。」とあります。つまり、客香である「神仙」を連衆の中でただ1人聞き当てた場合は3点の加点要素があり、「神仙」の当りは独聞でなくとも2点の得点となります。また、試香のある「福」「寿」についても独聞の場合は2点となり、その他「平点」(普通の要素の当り)は1点となります。
1炉目が廻り終えて、各自の投票も済んだところで、香元が正解を宣言しますと、執筆は「一*柱開」の例により、正解した人の回答欄にのみ要素名を書き記します。「平点(1点)」については、要素名が記載されていることだけで「当り」を示しますので、「3点」「2点」のみ要素名の右肩に「ヾ」「ヽヽ」のように合点を掛けます。続いて、盤者は、各自の得点「1点」を「1間」と換算して、連衆の札紋のついた菊花を進めます。出典には「六間より神仙の地に至るとて、先ず『始めの勝ち』とす。」と記載があり、最初に6間目(金界)に花を進めた方が盤上の最初の勝者となります。点法に則れば、独聞を続けて最低3炉目で勝負が付く場合もあります。『始めの勝ち』が決まっても、盤面は10間ありますので香を続け、行き着くところまで立物は進ませます。出典には「はやく向こうに至り着きしを『後の勝ち』とす。」とあり、盤上の勝負は2段階に決することとなっています。さらに、盤上の勝負が決しても、香は残らず焚くのは常のとおりです。
一方、香が全て焚き終わり、「独聞」が一度もなければ、全問正解した人でも8間目までしか行き着けないので、『後の勝ち』が出ないこととなります。そこで、出典には「七*柱ともききあつれば褒美に向こうまでやるべし。」とも記載され、独聞がなくとも着実に全問正解した人は、最後に『後の勝者』として「天寿」を与えてやるというルールとなっています。
盤上の「初後の勝負」が付くと、最後は記録上の勝負となります。執筆は、一*柱ごとに判定していた各自の得点を合計して下附を付します。下附は出典に「一*柱を百歳と記す」とあり、各自の得点の「1点」を「百歳」に換算して「3点」ならば「三百歳」、「5点」ならば「五百歳」と書き記します。盤上では、1間を百歳と換算しても「千歳」までが天寿でしたが、記録上では、全問正解者が全部を独聞した場合、2×6+3=15点で「千五百歳」までありうる訳です。
ここで、下附に関して、「長寿香之記」には、「全問不正解」の記載例がありません。回答欄同様おそらく「白厥(はっけつ)」とするのが順当と思われますが、少なくとも、記録上に長寿を祈って名乗り出た連衆を「未だ生まれていない」か「死んだ」ように扱うのは、可哀そうだと思います。盤上の立物について、出典には「菊初めより立て置き、聞次第一間行く。」との記載があり、一度も聞き当てなくとも基礎寿命として「百歳」が与えられているように見えます。これについては、養生医学の古典にも「人が百歳以上生きられるのは自然の法則」と書かれているので、一面、理にかなった景色なのかもしれません。一方、香記では「三*柱あたれば三百歳」という方式が明記してありますから、「無点」を「百歳」と下附してしまうと矛盾が生じてしまうのでこれは考え物です。そこで、「無点」の下附については、「産声」 「乳呑児」等、なんらかの「微笑ましい景色」をアドリブで付け加えるのもよろしいかと思います。
このようにして、最高得点の方は、その座の「長老」と認められ、連衆から寿ぎを受ける趣向となっています。「同い年」が複数いらっしゃる場合は、常の如く上席の方が記録上の勝者となります。
人間には元来長寿の素質が潜んでいるようです。「彭祖」のように霊芝や雲母の粉を食べなくても、私たちは、人間の生来持って生まれた「元気」(男は「精」、女は「血」)を養い、発揮させて、青年のような人生を全うすることに傾注すべきかもしれませんね。
「彭祖」の用いた養生法は、「房中術」であったようです。
これは、いまさらどうにもなりませんね。(^_^;)
私にとっては「孔子」のいう「五十而知天命」の方が現実的です。
組香の解釈は、香席の景色を見渡すための一助に過ぎません。
最も尊重されるものは、皆さん自身が自由に思い浮かべる「心の風景」です。
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