六月の組香

鵜飼の景色をテーマにした組香です。

「月」が出た時点で焚き止めにするところが特徴です。

 ※ このコラムではフォントがないため「 」を「*柱」と表記しています。

説明

1.      香木は5種用意します。

2.      要素名は、「鵜川(うかわ)」「篝火(かがりび)」「小舟(こぶね)」と「鵜(う)」「月(つき)」です。

3.      香名と木所は、景色のために書きましたので、季節や組香の趣旨に因んだものを自由に組んでください。

4.      「鵜川」「篝火」「小舟」は各4包、「鵜」と「月」は各1包作ります。(計14包)

5.      「鵜川」「篝火」「小舟」は各1包を試香として焚き出します。(計3包)

6.      まず、「鵜川」「篝火」「小舟」から各1包を引き去り、これに「鵜」を加え打ち交ぜます。(1×3+1=4包)

7.      本香A段は「後開き(のちびらき)」で4炉廻ります。

8.      香元は、香炉をとともに、折居(おりすえ)を廻します。

9.      連衆は、試香と聞き合わせて1炉ごとに答えの香札を1枚打ちます。

10.  執筆は、折居を開き、各自の答えを香記に書き写して置きます。

11.  4炉焚き終わったところで、香元は正解を宣言し、執筆は連衆の当否の点を打ちます。(委細後述)

12.  続いて、手元に残った「鵜川」「篝火」「小舟」の各2包に「月」を加えて打ち交ぜます。(計7包)

13.  本香B段は「一*柱開」(いっちゅうびらき)最大7炉廻ります。

−「一*柱開」とは、1炉ごとに連衆が回答し、香元が正解を宣言するやり方です。−

14.  香元は、香炉をとともに、折居(おりすえ)を廻します。

15.  連衆は、試香と聞きあせて1炉ごとに答えの香札を1枚打ちます。

16.  香炉と折居が帰ったら、香元は正解を宣言します。

17.  執筆は、各自の答えを全て香記に書き記し、当否の点を打ちます。

18.  この組香では、香元が「月」の出現を宣言した時点で「本香焚き終り」となります。(それまでは、8〜11を繰り返します。)

19.  焚かれずに残った香包は「捨て香」として総包(そうづつみ)に戻します。

20.  点数は、「鵜」「月」の当たりは2点、その他は1要素につき1点を答えの右肩に付して表します。

21.  下附は、点数で書き表さず、全問正解は「長柄川」、全問不正解は「月夜」、その他は「さ走る鮎」と書き記します。

22.  勝負は、最高得点者のうち上席の方の勝ちとなります。

 

 

爽やかな風がいつしか湿り気をはらんで梅雨となり、半年の汚れを洗い流して行きます。

「水無月」の締め括りと言えば、「夏越の祓」ですね。これは、陰暦6月晦日に、罪穢れを除き去るため「茅の輪」くぐったり、紙で作った「人形(ひとがた)」で身体を撫でて清め、それを水に流したりする祓の行事で、古来「水無月の夏越の祓する人は千歳の命のぶとこそきけ」と詠われていたようです。これによって上半期の罪や穢れが払しょくできるのですから、「魂のウィルスチェック」か「ディスククリーン」というところでしょうか?「魂の生まれ変わり」を目的とする出羽三山の山伏修行でもメインの祝詞は「諸々の罪穢れ祓い清めて清々し」でしたので、長い人生を美しく生き抜くためには、定期的に汚辱を断つことが大切なようです。

この時期、近くの大崎八幡宮にも晦日の大祓神事のための「茅の輪」がお目見えします。私は、休日に散歩がてら詣でることとしていますが、人影もまばらな参道で「左回り・右回り・左回りと、『』の字を書くように3度くぐり抜ける。」というのが、結構仰々しくて気恥ずかしいものです。 「茅の輪」の起源については、『備後国風土記』に「北海から来た武塔神が宿を求めたところ弟の巨旦(こたん)将来は、金持ちなのに断った。一方、兄の蘇民(そみん)将来は貧しいながらも一夜の宿を提供し粟飯をふるまった。年を経て、8人の王子を連れた武塔神が再来し、「何かあの時のお礼をしよう。お前の子孫は家にいるか」と聞きました。蘇民は「私の娘と妻がおります。」言ったところ、武塔神は「茅の輪を腰に付けさせろ」と言いました。その夜、蘇民たちが言われたとおりにしていると、武塔神は茅の輪を付けた者以外を皆悉く滅ぼしてしまいました。その後、武塔神は自分が速須佐能命(すさのおののみこと)であることを明かし『後世に疫病があれば、我は蘇民将来の子孫であると言って、茅の輪を腰につければ免れるであろう』と言った。」との記載があります。そのため、「の字くぐりは何んで必要なのかなぁ?」と思っていましたら、これは自分自身を神主の使う「祓い串」に見立て、神様に向かって「」の字を描くことが神道の所作としていつしか定着したものだということが分かりました。

このような故事に基づいて、無病息災や五穀豊穣を祈って行われる「蘇民祭」は全国津々浦々にあるようですが、岩手県奥州市の「黒石寺」で旧正月の7日に行われる「蘇民祭」は、元来「全裸」で行われていたため「日本三大奇祭」として有名です。この祭りは、寒中に3度水垢離して精進潔斎する気構えが必要ですが、当日届出れば地元住民以外でも参加が可能です。ただ、そのおおらかさが仇となってストリーキングも混じるようになり、警察署から「わいせつ物陳列罪で取り締まる」との見解が出されるに至って、「下帯」(六尺褌)着用が義務となってしまいました。「大寄せになると客が荒れる」のは、何も「こだわりの飲食店」に限った事ではありませんが、さらに追い打ちをかけたのが3年前の「JRポスター問題」です。この時は、「アップで写し出された男性の胸毛がセクハラ か?」という論争になり、マスコミが面白おかしく取り沙汰していたのを思い出します。

しかし、この騒ぎは、その年の「蘇民祭」終了とともに程無くして収まりました。それは、単にマスコミの興味が失せたというだけではなく、地元民の「不動の信仰心と伝統を堅持する心」が、マスコミの自戒を促して事態の収拾を早めたというのが本来語られるべき事実だと思います。当日は、参加者の2倍にも達するマスコミが殺到する中、祭事は粛々と進行し、メインイベントである「蘇民袋争奪戦」では、裸の男たちが「小間木」がこぼれて散り散りに千切れた「袋の首の部分」を目指して本堂から境外になだれ出て、2時間余りも激しい争奪戦をくり広げました。参加者も見物人も各々が「地域の掟」を守り、結局「突風は吹いても地べたの草木は一本も変わらない。」という根強さが、掟破りのマスコミを圧倒したかたちとなりました。これにより、その後の論評が興味本位のものから好意的なものに変わったことは言うまでもありません。当時、ポスターに大写しにされた胸毛の男性は、前年の「取主(とりぬし)」と言ってヒーローのような存在にも関らず、この騒動のために裸になることを自粛し、世話人に徹していました。それでも「この祭りは裸で騒ぐ祭りではありません。」とピシャリと言い切り、「・・・それさえ分かってくれたら大歓迎です。!^^!」と語った厳しさと寛容さが、千年以上も地域に根差した伝統文化の力だと思いました。

全国各地に千年以上続いている伝統行事は数々ありますが、どこも地域の担い手不足、とりわけ子供不足が存亡の危機の誘引になるようです。観光として成り立ったものだけが残り、土着で継承されている小さな祭や伝承が今も「ポッ!」「ポッ!」と音を立てて消えて行きつつあります。国の庇護を受けた「鵜匠」は残り、「鷹匠」は消え、神社庁の「神楽」は残り、地域伝承の「お神楽」は風前の灯です。真の「コスモポリタン」とは国や地域への帰属意識を持ってどこに行っても「お国自慢」をしっかり語れる人のことではないでしょうか?地域に育まれた人間は「積み木」の重さを知っているので、けっしてそれを崩さない筈です。ひと頃、「地域の伝統文化を学業の本科に取り入れる」というムーブメントが盛り上がりましたが、是非とも「新しい教育倫理」として継続してもらいたいと思っています。

今月は、夏の川辺の風物詩「鵜飼香」(うかいこう)をご紹介いたしましょう。

「鵜飼香」は、杉本文太郎の『香道』に掲載がある「夏」の組香です。同名の組香は、典拠が同じとされている水原翠香の『茶道と香道』にも掲載されていますが、内容に齟齬はないものの、文面は3行しかないため概要を知るに留まります。また、「香りと文化の会」発行の『香道の栞(一)』にも同名の「鵜飼香」が掲載されていますが、こちらは、要素名が「長良川」「河波」「小舟」「鵜」の4種10香の組香で、下附に「篝火」と「月夜」が配されており、景色は似通っているものの、構造が全く異なっていますので後世の派生組か同名異組としておいてよろしいかと思います。今回は、オリジナルに近い雰囲気があり、構造にも特徴のある杉本文太郎『香道』を出典として書き進めたいと思います。

まず、この組香には証歌はありませんが、小記録を見ただけでも要素名や下附から「夏夜の鵜飼の風景を表した組香」であることは分かります。因みに『香道の栞』の「鵜飼香」には「うかひ舟たかせさしこすほどなれやむすぼほれ行くかがり火の影(新古今集252 寂蓮法師)」が証歌として掲載されています。この歌は「鵜飼舟がちょうど浅瀬を棹さして越えてゆくあたりなのか、乱れて小さく凝り固まっていくゆく篝火の炎よ」と、鵜飼の「鵜」というよりは、瀬に揺らされて火勢が弱まって行く「篝火」の「あはれ」を詠んだ歌です。この歌が詠まれた「六百番歌合」では、顕昭(左方)にむすぼほれ行くかがり火って・・・何?」と評されて勝負に負けたのですが、この歌を契機に「鵜飼篝火の影」という和歌の常套句が生まれたといっても過言ではありません。もしかすると、寂蓮は『新古今集』の撰者となった立場を利用して、選歌の際にリベンジを図ったのかもしれませんね。

ここで、鵜飼とは平底の小船の舳先に篝火を焚き、鵜匠が数羽の鵜を操って、光に集まってきた鮎を鵜に飲ませる漁法です。鵜飼に使役される鵜は野生の海鵜を訓練したもので、学習能力が高く、順応性に優れた性格と敏捷性が好適種だったようです。鵜匠は、鵜を飼いならして意のままに仕事をさせられるようになるまで毎日生活を共にし、2、3年かけて一人前に育て上げるそうです。水に潜る鵜の喉元には紐が巻かれており、ある大きさ以上の鮎は飲み込むことができなくなっているため、鵜匠は頃合を見て鮎を吐き出させて漁獲とします。鵜に捕らえた鮎は、ダメージが少ないため鮮度も美観も逸品とされ、昔から珍重されて来ました。

鵜飼の歴史は非常に古く、『日本書紀』の神武天皇の頃(紀元前700年?)に「簗漁は今の養鵜部の元祖だ」という記述があり、このとき既に朝庭で養鵜部による「鵜飼」が行われていたことを示しています。また、中国の史書『隋書』には開皇二十年(600年)「日本を訪れた使者が、小さな輪を鳥にかけて魚を取る変わった漁法を見た 」と記載されています。現在の中国では、「鵜飼」が一般化しているため、もしかするとこれは日本から伝わったのかもしれません。 平安時代の延喜年間(900年頃)には、「長良川河畔に7戸の鵜飼が居り、国司の藤原利仁が天皇に獲れた鮎を献上させたところ、天皇がたいそう気に入って、鵜飼に要する篝松の料(対価)として方県郡七郷の地を賜り『鵜飼七郷』と呼ばれた」との記述があります。全国に数ある鵜飼の中でも最も歴史が古く有名な岐阜県長良川の鵜匠(現在6名)は、代々世襲制で、宮内庁から「式部職鵜匠」という職名を与えられています。

また、国文学史上での「鵜飼」は、「売比河(めひがわ)の早き瀬ごとに篝さし八十波伴の男は鵜河たちけり(万葉集4023大伴家持)」が初見とされています。これは、天平時代に国司(越中守)だった大伴家持が国内巡察の際、売比河(現:富山県神通川) で鵜飼(鵜川立ち)が行われていたことを見て詠ったものです。神通川は岐阜県高山市の川上岳に流れを発しており、長良川の源流である郡上市大日ヶ岳とは距離にして30km程度ですので、後先は別として「鵜飼」の文化が川の流れに沿って伝播した可能性も考えられます。

このようにして、「鵜飼」は、民衆の漁法から「朝廷の行事」として取り立てられ、平安末期には、「夏の夜の風物詩」として各地に広がり、和歌の格好な題材になっていたようです。江戸時代の俳聖芭蕉は「おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな」という有名な一句を残していますが、これは、時代を遡って鵜飼舟あはれとぞみるもののふの八十宇治川の夕やみの空(新古今集251 慈圓)」に通じているような気がします。

次に、この組香の要素名は、「鵜川」「篝火」「小舟」「鵜」「月」となっており、「鵜飼」を表すのに十分な景色が用意されています。以下、各要素名に解説を加えます。

「鵜川」・・・「鵜がいる川」から派生して「鵜飼をする川」という意味かと思います。国歌大観で「うかひ」を検索すると『新古今集の4首をはじめ、たくさんの歌が現れますが、その舞台となっているのは、「宇治川」「大井川」「桂川」「淀川」が多いようです。かの有名な「ながらがわ」と「うかひ」を複合検索した結果は、わずかに一首「うかひ舟今はほかにはながら河むかしを見するかがりびの影(鈴屋集1585:本居宣長)」だけでした。

「篝火」・・・屋外で照明用に燃やす火のことですが、ここでは「鵜飼用の集魚灯」のことです。篝火を燃やす鉄製の籠を「篝(かがり)」と言い、これに樹脂分が多い「松割木(まつわりき)」を入れて焚き、「篝棒(かがりぼう)」で舟の舳先に下げて水面を照らします。

「小舟」・・・小さな手漕ぎの舟のことですが、ここでは鵜飼に使う「鵜舟」のことです。長良川で使われている鵜船は全長約13メートルの平舟で、「鵜匠」のほか、「とも乗り」と呼ばれる操舵担当の責任者と「なか乗り」と呼ばれる助手の3人が1組で舟に乗り込みます。

「鵜」・・・前述のとおり、鵜匠によって「訓練された海鵜」のことです。

「月」・・・「夏の月」のことです。夏夜の風情を彩る光としても使われていますが、後述のとおり「篝火」の集魚効果を減退させるため、鵜飼の「仇」となる存在でもあります。

このように要素名の景色は観客が水面の上から見た鵜飼の景色で構成されていますが、最も躍動感に溢れ、ドラマチックなのは水面下で鵜と鮎が繰り広げる狩りの様子かと思います。この様子を表すのに必要不可欠な「鮎」という要素については、下附として香記に反映されることとなります。

さて、この組香の構造を解説する前に、まず『茶道と香道』の「鵜飼香」の記述を全文引用しておきましょう。

このように非常に短い記述ですが、出典と謂わんとするところは同じですので、この組香の構造が端的に理解できるかと思います。

この組香は、香席での所作を完全に2分割する「段組」形式を取っているというところが特徴となっています。まず、地の香である「鵜川」「篝火」「小舟」を各4包つくり、客香である「鵜」と「月」は各1包作ります。次に、「鵜川」「篝火」「小舟」の各1包を試香として焚き出します。連衆が香気の印象を心に留めたところで、香元は手元に残った「鵜川(3包)」「篝火(3包)」「小舟(3包)」からそれぞれ1包を引き去り、残った3種各2包は元の位置に戻します。

本香A段は、先ほど引き去った「鵜川(1包)」「篝火(1包)」「小舟(1包)」に「鵜(1包)」を加えて打ち交ぜ、計4包を焚き出します。この段は、「後開き(のちびらき)で行われますので、連衆は試香に聞き合せて香炉に添えられた折居に答えの書かれた香札を1枚ずつ投票します。香札の投票が終われば、執筆は折居を開いて、各自の答えを香記に書き写して置きます。4炉が廻り終えたところで、香元は香包を順に開いて正解を宣言し、執筆は香記に香の出を書き記し、回答欄に記された各自の答えに合点を掛けます。点法は、客香である「鵜」の当たりは2点「ヽヽ」、その他は1点「ヽ」を答えの右肩に付記して示します。

ここで、回答に使用する「香札」について、出典には何も記載がありませんが、各段に出る香種は4種で客香が1包ですので「十種香札」の流用が可能です。「十種香札」を使用する場合には「鵜川(一)」「篝火(二)」「小舟(三)」「鵜(ウ花)」「月(ウ月)」のような札の読み替えで対応すればよろしいかと思います。また、A段については名乗紙を使用して、4炉分をまとめて回答し記録するという方法でも可能です。

続く本香B段は、残された「鵜川(2包)」「篝火(2包)」「小舟(2包)」に「月(1包)」を加えて打ち交ぜ、計7包を順に焚き出します。B段は、「一*柱開」で行いますので、香元が香炉を廻し、連衆が香を聞いて答えの香札を投票し、香札が帰ったら香元が正解を宣言し、執筆が札を開けて香記に各自の答えを書き写し、合点を掛けるところまでを一巡として繰り返します。当否の点はA段と同じく、客香である「月」の当たりは2点「ヽヽ」、その他は1点「ヽ」を答えの右肩に付記して示します。この組香では、*柱開を続け、香元が「月」の出を宣言したところで香は「焚き止め」とすることとなっています。これは、「鶯香」や「賓客香」に用いられている「待っていたものが出たからこれで打ち止め」という趣向と似たものです。

この組香の景色を鑑賞するとA段は「鵜」を主役として、連衆に鵜飼の風景をイメージさせる舞台設定を表すものとなっています。また、鵜飼は、日没後の午後7時頃から始まりますが、最初は鵜の元気が良く、観客も興味津々で観ているものです。このことから、A段は芭蕉の上の句「おもしろうて・・・」と同じように、「ワイワイガヤガヤ」と楽しく見ている初めの時間帯を表すものと思われます。一方、B段の景色は「月」が主役となります。鵜匠に操られる鵜や追い回される鮎を小一時間も観ていると夜も深まり、観客も「やがて悲しき・・・」思いに駆られるのでしょうか、この段の景色にはもう鵜は登場しません。水辺で繰り広げられる漁労の景色から「あはれ」をゆったりと味わって、ふと空を見上げると「月」が煌々と昇っているので、「さぁ、切り上げだ!」というところでしょうか?

鵜飼は、篝火を集魚灯にして、下に集まる鮎を鵜に獲らせる漁法ですので、月明かりが鮎を惑わして篝火の集魚効果が削がれるため、今でも鵜飼は「満月の夜には行われない」のが習わしとなっています。「月」を忌むべきものと考えるのは、なかなか日本人の感性が許さないのですが、「月」が登場したところで香を焚き止めにするのは、鵜飼を「邪魔者が来たので撤収する。」と言う意味の方が強いのではないかと思います。雅趣として「今宵は鮎を漁るよりも月を愛でるべし」と解釈することも可能ですが、いずれ「鶯香」「賓客香」のように、「主賓が現れたので満足して御開きにする」と解釈するだけでは不十分なような気がします。このように、この組香は「段組」によって主役が変わり、それによって景色や心象も大きく変わるというところに特徴があります。

続いて、この組香はB段の「月」の香が出たところで当否も判明して合点も掛かり、香記もある程度出来上がっているので、執筆は最後に下附を書き記して各自の成績を示します。出典では全問正解の場合「長川」と記すこととなっています。これについては『茶道と香道』の記述でも共通していますので、」と「」の誤記でないことは明白です。しかし、「鵜飼」と言えば昔から岐阜県の「長川」が元祖として有名ですので、私は「長川」は伝書を書写した人の当て字の問題で、本来は「長川」の表記が正しいのではないかと思っています。このため、後世の派生組と思われる『香道の栞』では「長川」が要素名として配置されることとなったのだと思います。また、全問不正解の場合は「月夜」と書き記します。これは、前述のごとく「月明りのために篝火の集魚効果が薄れて漁獲が無かった」ということを意味するものでしょう。さらに、出典の表記では「當不當相交る」と書いてある「その他」の当りについては「さ走る鮎」と書き記します。「さ走る」とは「素早く動き廻ること」を意味しますので、鵜の嘴を避けて右往左往し、捕まって鵜呑みにされてしまう鮎や遂には逃げおうせる鮎の躍動感や悲喜交々の姿が思い浮かびます。鵜飼香の香記に現れる点数とは、鮎の漁獲のことと解釈するのが順当ですので、「鮎」の悲喜は、「連衆」の喜悲に反転して「さ走る鮎」の姿に一元化されて香記に表されることになります。

因みに、「長川」は、奈良県天理市、鳥取県鳥取市大阪市北区等、各所に名前を見ることができますが、中でも畿内の歌枕「淀川」の支流に位置する中津川(長柄川)は、与謝蕪村が「やぶ入りや浪花を出でて長柄川(春風馬堤曲1)」と詠んだ川で、近くに「鵜殿」があることから、あながち無関係と捨てきれない地名ではあります。

最後に、この組香では、個人の成績を表す下附が3種類しかありませんので、下附のみを比較して優劣を決めることは困難です。全問正解の「長柄川」(13点)が複数いる場合は同点となりますので上席の方を優位とします。「長柄川」の人がおらず、「さ走る鮎」(1〜12点)が最高点の場合は、席中に記録した各自の合点の数を比べ、最高得点のうち上席の方の勝ちとなります。

梅雨時ともなりますと、香炉を持つ手も汗ばみます。是非、夕暮れに集まって「鵜飼香」で水辺の夕涼みを体験されてはいかがでしょうか?(席後は「鮎の塩焼き」で千鳥の席とぉ・・・y*^^*

 

 昔は、阿武隈川のライン舟下りでも昼の鵜飼が見られました。

痩せた鵜の濡れ羽がオヤジの濡れ髪のようで「可哀想」が先に立ったのを覚えています。

もう少し紐を緩めてやれば、喉元を通る鮎も増えるのでしょうが・・・

船端に黒き濡れ羽の佇みて水面眺めつ望月を待つ(921詠)

組香の解釈は、香席の景色を見渡すための一助に過ぎません。

最も尊重されるものは、皆さん自身が自由に思い浮かべる「心の風景」です。

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