十一月の組香
寂びしい冬夜の独り寝をテーマにした組香です。
浪と千鳥を聴く人心情を思い浮かべながら聞きましょう。
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説明 |
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香木は2種用意します。
要素名は、「浪の音(なみのおと)」と「千鳥声(ちどりのこえ)」です。
香名と木所は、景色のために書きましたので、季節等に因んだものを自由に組んでください。
「浪の音」は2包、「千鳥声」は1包作ります。(計3包)
この組香に「試香」は有りません。
「浪の音」2包に「千鳥声」1包を加えて打ち交ぜ、その中から任意に1包引き去ります。(3−1=2包)
本香は、2炉廻ります。
連衆は、本香を2炉聞いた後、「聞の名目(ききのみょうもく)」と見合わせて答えの札を1枚投票します。
執筆は、香記の回答欄に全員の回答を書き写します。
香元が、正解を宣言し、執筆は当たりの名目に「点」を掛けます。
下附は、正解者に「寝覚(ねざめ)」と書き記します。
勝負は、正解者のうち、上席の方の勝ちとなります。
小春日和には南の窓辺に寄り添うだけで贅沢に思える季節となりました。
尾張の地は、残暑も長引きましたが、寒露を過ぎたあたりから「金木犀」の香りが街中に漂いましたので、東北に居た時の条件反射で部屋に襖を立て、「放熱」から「保温」に気を遣い始めました。すると自然というものは凄いもので、それ以来「猛暑日」はなくなり、気付けばもう11月。西風が吹くと肌寒くなり、秋物はハンガーに掛けたものの、袖を通さない間に箪笥のセータに手を伸ばしそうな寒がりの私です。
夏に比べて外出には苦労しない気候になりましたが、雑事にかまけている間に「秋祭りシーズン」も終わり、「紅葉狩り」まで積極的に街に出る必然性もなくなったため、庵に居座ることが多くなりました。小さな庵ですので、朝食、洗濯を済ませ、隅から隅まで掃除をしても昼前には終わります。それからは、書や結びの稽古などをして、夕方にはネットで映画を観ているとあっという間に夕餉の支度となります。昔は手仕事好きで溜め塗りや茶杓削りなどもやっており、今こそ「アトリエ付きの庵」で職人三昧の筈なのですが、「老眼」が進んだためか「家事」好きのためか、なかなか寝食を忘れられず「三度の飯」に集中力を削がれるようです。
普通の単身者ならば、一気に自分に降りかかって来た「家事」に辟易し、ストレスを感じるのでしょうが、私は万事「自分のやり方」を持っており、家族と同居の時にはそれを封印していましたので、「自由に台所・洗濯機・掃除機が使える」「晴れた日に南側のベランダに布団が干せる」などという普通のことが、とても幸せに思えます。また、「自分の食事時間に合わせて御飯が炊ける。」「旬の物でも数を気にせず食べられる」「ワイシャツを一昼夜、漬け置きして芯まで洗濯できる。」など
は同居人がいれば望むべくもなかった贅沢です。独り暮らしは、「やりたいことを存分にできる時間ではなく、家事によって自分の時間を削ぐこと」とよく言われますが、私にとっては、家事も大事な「生き方の具現化」ですので、日々創意工夫して楽しみながら続けています。
私も若い時には「独り暮らしがしたい!」「親から自立したい!」などと思っていましたが、今思えば「自分のやりたいことを、自分だけの空間で満喫したい!」と云う単純な動機だけでは、その生活は直ぐに破綻したであろうと思っています。単に家族と距離を置きたがるのは、「自立」ではなく「孤立」で、「家族の煩わしさから解放される」こととの引き換えだけでは、独り暮らしに関する諸々の面倒には耐えられなかったでしょう。今思えば、家族は私が思っている以上に「何か」をしてくれていたと思います。おそらく私の知らないところで、些細な手間を代行し、問題を解決してくれていたのだろうと思います。独り暮らしをすると、それまで触れる必要すらなかったもの(台所や風呂のヌメヌメとか)に触れ、話す必要のなかったこと(電気料の毎月値上げとか)を話し、頼る必要のなかった人(管理人さんとか)に頼ることもあります。また、全てが自分を中心に「回転する」のではなく、「集中する」環境の中で、その日にやり残したことは確実に後日自分を苦しめることとなります。もし、若い人が必然性のない状況で「親からの自立」を考えるならば、まずこのことを良く吟味すべきだろうと思います。たとえ実家に住んでいても生活費を納めたり家事を手伝ったりと「自分ですること」を拡げていくことで、十分に自分らしい生活と家族への貢献に折り合いをつけていくことは可能かと思います。「親からの自立」よりも、まず「自立のための自律」を家庭内で実践すべきでしょう。
今は、人口が減っても世帯数は増えていくという老若男女を問わない「独居」の時代ですが、できれば「三世代」で、家族の歴史と風土と財産を共有しつつ、仲よく暮らしていけるのが最もエコで安全だと思います。震災後の「絆」の時代がこのような風潮に誘導してくれればと願っています。老いさらばえて「家族への依存体質が身についてから」独立を余儀なくされるのは宮仕えの常道とはいえ、普通の
役人には本当に大変なようで、中には「単身赴任はもう嫌だから辞職する」「県外から新幹線で通う」という人もおられます。そういう人を見るにつけ、独り寝も独り暮らしも気にならない特異体質の私ですら、細かな気づきで家族の「ありがたみ」がじんわりと分かって来ました。彼女らに対して、私が何を為し得てきたのかは、私のいなくなった家庭の「不都合」を垣間見る術もないので察しもつきませんが、気持ちが落ち着いた初冬に来て初めて、「望郷」と「感謝」の念が芽生えて来ました。
今月は、須磨の関守の寝覚めを誘う「霜夜香」(しもよこう)をご紹介いたしましよう。
「霜夜香」は、*叢谷舎維篤(そうこくしゃこれあつ)の『軒のしのぶ(四)』に掲載のある冬の組香です。同名の組香は、香と文化の会編の『香道の栞(その二)』にも掲載があり、こちらは「千鳥」と「波」を要素名とした香2種4香、本香2炉を「聞の名目」1つで回答する組香です。『香道の栞』は、和綴の「ポケット版組香書」と言える装丁で、2冊に分かれており、「その一」は昭和57年に先々代の三条西堯山氏が監修して発行され、「その二」は平成2年に先代の御宗家である堯雲氏が監修しています。こちらの「霜夜香」は、証歌の景色が端的に表された非常にシンプルな組香であるのに加えて、三条西御家流の正統組との認証もあるため、現在も冬の定番組香として各地で催行されています。一方、『軒のしのぶ(四)』は米川流の組香書ですが、作者が意図した景色が同じなのに加え、香2種、本香2炉を聞の名目1つで回答する構造も似通っています。そこで、今回は時代の古い『軒のしのぶ(四)』を出典、『香道の栞』を別書としながら、両者を比較しつつ派生の過程を探ってみたいと思います。
まず、この組香に証歌は記載されていませんが、組香創作の主体となった証歌をあらかじめ明記することは、後世になって一般化した風潮であるため当然のことだと思います。しかし、後述する「要素名」と「聞の名目」の景色から「淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜ねざめぬ須磨の関守(金葉集270:源兼昌)」を題材として創作されたものだということは誰の目にも明らかでしょう。この歌は、「百人一首」の78番歌で有名な冬の代表歌で金葉集には「関路千鳥といへる事をよめる」との詞書に続いて掲載されています。意味は、「冬の夜、須磨の関守は、淡路島から渡って来る千鳥の鳴く声に幾晩目覚めさせられたことだろう。」と旅人である詠み手の旅情と寂寥感を間接的に関守の心情として反映させた巧みな歌です。
証歌の詠人である源兼昌(みなもとのかねまさ:生没年不詳)は、堀河院歌壇に属した歌人ですが、勅撰和歌集に7首しか掲載されていないため、あまり知られてはいません。しかし、最初の勅撰となった『金葉集』のこの歌が、『小倉百人一首』に採用されたため、後世に名を残すかたちとなっています。また、「千鳥」は、チドリ目チドリ科の鳥の総称で、和歌では冬の風物とされており、千鳥の鳴き声は「連れ合いを求める声」と考えられています。また、淡路島は「逢わじ」に掛かりますので、妻から離れて暮らす関守の「寂びしさ(ひとり寝の辛さ)」を旅人が共感しているようにも見えます。
因みに、別書の「霜夜香」では、この歌が証歌として明記されていますので、この2組は基本的には同じ素材 に基づいて作られ、同じ景色を表す組香であることがわかります。また、この歌は『源氏物語』の12帖「須磨」で、皆が寝静まっている中、源氏が独り寝付かれずにいると、とても悲しい声で千鳥が鳴き、「独り寂しく鳴く私も、お前が鳴いている明け方は心強い気がする。」と詠んだ「友千鳥諸声に鳴く暁はひとり寝覚めの床もたのもし」を意識した作であるという説もあります。
次に、この組香の要素名は「浪の音」「千鳥声」となっています。「浪の音」は、須磨の浦に寄せる波の音そのものであり、この組香の舞台背景となっています。そして、そこに響く「千鳥声」は、この組香の脇役であろうと思います。この組香は、2つの音景色で証歌全体の景色を形成しておき、それを聞いている人が実は主役なのだと連衆に思い浮かばせるという演出の施されているところが秀逸だと思います。
ここで、出典の香組部分の要素名は「鴴声」(「行」に「鳥」と書く字)と2字で書き記されてされていますが、本文では「千鳥」
の字を用いているため、表記のゆれとして「千鳥声」に統一しました。また、「浪」についても「波」の字が用いられている部分もありますので、多数決で「浪
の音」に統一しました。そうしてみますと、別書の要素名である「千鳥」と「波」は、出典の要素名から派生した語幹の部分のような気がします。もともと表そうとする景色は同じなのですが、2つの組香の中には、趣旨を「音」で思い浮かばせるか、「事物」で思い浮かばせるかのアプローチの違いがあるのかもしれません。いずれ、形而上好きの私としては、やはり出典の「音景色」の方が、心遊ばせる範囲が広いという感じがして好きです。
さて、この組香の構造はとてもシンプルにできています。まず、「浪の音」を2包作り、「千鳥声」は1包、合計3包作ります。この組香には試香は無く、この3包を打ち交ぜて、任意に1包引き去ります。すると、手元には「浪と浪」という同香のペアか「千鳥と浪」という異香のペアのどちらかが残ります。本香ではこれを順に焚き出しますので、香の出は「浪・浪」「浪・千鳥」「千鳥・浪」の3パターンになります。この組香は、試香を頼りに「浪」「千鳥」を判別することができないため、「浪・千鳥」「千鳥・浪」という香の出の順番は判らないこととなります。そこで、連衆はこの2炉を聞いて「同香」か「異香」かの2パターンで判別して回答することになります。香の出によっては「千鳥」の出ない場合もあるため、前述のとおり「千鳥は主役ではなく脇役である」というのが私の解釈です。
ここで、この組香は、専用の香札によって回答することとなっており、出典には「札紋(札表)」として「冬暁、冬夕、冬雨、冬風、冬月、冬夜、冬空、冬川、冬海、冬曙」とあり、「札裏」として「磯嵐 一枚」「須磨関守 一枚」と記載されています。「札紋」は本座での各自の名乗り(仮名)となる部分で、冬を多面的に俯瞰できる景色が網羅されています。「札裏」の記載は、所謂「聞の名目」であり、出典では「浪浪は、磯のあらし」「浪鴴 鴴浪は、須磨の関守」との記載がありますが、札が小さいため漢字のみに省略されています。
そうして、本香1炉が焚き出され、2炉目が焚き出される際に、香元は「札筒(ふだづつ)」を添えて廻します。連衆は2炉目を聞き終わったところで、これと思う「聞の名目」の書かれた札を1枚投票します。つまり、本香の2炉が「同香」であれば、それは則ち2包作っておいた「浪の音」が2つとも出たことを表しますので「磯嵐」の札を打ちます。一方、本香の2炉を「異香」と聞けば、それは則ち「浪・千鳥」と出たか「千鳥・浪」と出たかということですので「須磨関守」の札を打ちます。名目に解釈を加えるとすれば、「磯のあらし」は、「風雨が強い夜で浪音が千鳥の声をかき消したか、千鳥が巣篭りしていた」ことを表し、「聞こえなかった」主役は暗示された景色となります。一方、「須磨の関守」は、「浪音と千鳥の声を聴いて、証歌どおりの寂寥感を味わった」という意味で主役が顕在化してきます。このように聞の名目の時点でこの組香の主役である登場人物が現れてくるという演出も乙だと思います。
因みに、別書では「千鳥」を2包、「波」も2包作りますので、「千鳥」には試香があります。すると香の出は「千鳥・波」「波・千鳥」「波・波」の3パターンになるところは同じですが、「試香」があるために「千鳥」の出た順番が判別対象となりますので答えも3パターンとなります。そして、聞の名目は、「千鳥・波」には「幾夜めざめぬ」、「波・千鳥」には「須磨の関守」、「波・波」には「磯のあらし」と答えます。こちらの聞の名目は出典の「磯のあらし」を踏襲しながら「千鳥と波」に証歌から「幾夜寝覚めぬ」を引用し、寝付けないでいる関守の景色を加えています。この点、私も「千鳥・波」「波・千鳥」に区別をつけないまま「異香」として片づけ、聞の名目も一緒というのは、消化不良を起こしそうなので、出典の組香を改良するならば、別書のように「千鳥」に試香をつけて、「何番目に何が出たか」をはっきりさせたいところです。おそらく、出典では鳴き渡る「千鳥」を「出現するかしないかわからないもの」として捉え、試香で景色の中に固定化してしまうことを避けたのかもしれません。証歌から創作すれば「千鳥」を外すことはまず考えられませんが、作者は「霜夜香」を寒い夜に独り寝する人の心情を重要視し、「千鳥」が主役の「千鳥香」とは異なる景色を表したかったのでしょう か?これは証歌を明記しない組香ならではの作者の意図なのかもしれません。
続いて、本香が焚き終わり、札筒が戻ってきたところで、執筆は札を開き、香記の解答欄に各自の答えを書き写します。執筆が正解を請うたところで、香元は香包を開いて正解を宣言します。すると執筆は、香の出の欄に正解の要素名を2つ書き記し、正解となる「聞の名目」を確かめ、これと同じ名目にのみ「長点」を掛けます。「長点」は複数の要素を含む当たりを表す際に用いられる合点です。なお、出典には「当たり一点、ひとり聞き二点」とあり、連衆の中でただ1人正解する「独聞」に加点要素のあることが書いてありますが、もともと答えが1つの組香ですから、「独聞則ち、唯一無二の勝者」ということになり、表記上の景色以外にあまり意味はありません。
さらに、この組香は、正解者の成績に「寝覚」と下附されます。これは、証歌の世界に戻って、浪音や千鳥の声に想い乱れ「なかなか寝付けなかった」という意味を示すのでしょう。そうであれば、不正解に「熟睡」とでもあれば面白いのですが、出典の「霜夜香之記」の記載例では、不正解は何も書かずに「空白」となっています。
最後に勝負は、「寝覚」と下附された方のうち、上席の方の勝ちとなります。「寝覚」が誰もいない場合は、得点差も出ませんので、席次優先で正客に贈ることといたしましょう。
暮れかかる秋から冬にかけては、心も体も「陰」に向かいます。ゆっくりと自分を労わるように「陰」に浸るのも再生への一歩かと思います。皆様も「霜夜香」で冬の夜で一人寝する
「尾張の関守」にでも想いを馳せてみてください。
独りが本当に辛いのは冬籠りの時期かもしれませんね。
お香を燻らせながら手仕事にでも打ち込みましょうか。
冬月に千鳥の声や冴え澄みて想う彼方に誰かありなん(921詠)
組香の解釈は、香席の景色を見渡すための一助に過ぎません。
最も尊重されるものは、皆さん自身が自由に思い浮かべる「心の風景」です。
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