二月の組香
梅と煙という一見関連性のない要素を結びつけた組香です。
聞の名目に使われた和歌の句が景色のヒントとなっています。
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説明 |
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香木は3種用意します。
要素名は、「梅」「煙」と「ウ」です。
香名と木所は、景色のために書きましたので、季節や組香の趣旨に因んだものを自由に組んでください。
「梅」「煙」は各 3包、「ウ」は各1包作ります。(計7包)
まず、「梅」「煙」の うち各1包を試香として焚き出します。(計2包)
残った「梅」「煙」の各 2包に「ウ」を加えて打ち交ぜ 、その中から1包を任意に引き去ります。(5−1=4包)
本香は、「二*柱聞(にちゅうぎき)」で4炉廻ります。
連衆は、 試香と聞きあわせ、2炉ごとに「聞の名目」と見合わせて名乗紙に2つ書き記して提出します。
点数は、独聞(ひとりぎき)は3点、「ウ」を含む名目の当たりは2点とし、その他は名目の当たりにつき1点とします。
この組香に下附はなく、名目に付した「長点」の数で優劣を競います。
勝負は、長点の数が最も多い方(最高得点者)のうち、上席の方の勝ちとなります。
伊勢神宮の参道に木槌の音が響き渡っています。
「春の観光シーズン」も前哨戦の時期を迎え、「伊勢神宮の式年遷宮」がメディアに取り上げられることが多くなりました。 今年は、概ね60年毎に建て替えられてきた出雲大社も5月に「本殿遷座祭」が執り行われる予定のため、日本は「ダブル遷宮」を迎える年となるようです。
「式年遷宮」の「式年」とは「定められた年」の意味で定期的に行われるものを指し 、出雲大社は、「概ね60年毎」(〜70年)に建て替えられ、必ずしも定期的ではないので「式年」の文字は付きません。一方、伊勢神宮も以前は「概ね」だったようですが、慶長14年(1609)に行われた第42回内宮式年遷宮以降は、20年に1度と決まっています。「遷宮」とは、神社の正殿を造営・修理する際や、 正殿を新たに建てた場合に、「御神体を遷すこと」を意味します。伊勢神宮の第1回式年遷宮が行われたのは、持統天皇4年(690)のこ ろで、それから1300年にわたって続けられ、第62回 の行事は、平成17年5月に御造営用材を伐採する山の神を祭る「山口祭」から始まり、今年の10月予定の「遷御 (せんぎょ)」でピークを迎え、天皇陛下が楽師を遣わされて御神楽と秘曲を奉納になる「御神楽」まで行事が続きます。 その後、「荒祭宮」など14の別宮は今年の10月から来年の12月にわたって順次「遷宮」を終える予定となっています。遷宮は、建築物そのものが「リニューアルする遺跡」として永遠性を持つための大いなる営みなのです。
昨年、伊勢神宮に詣でた際、「式年遷宮記念館」で詳しく勉強しましたが、式年遷宮は「唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)」という建築様式をはじめとする古来の伝統技術を次世代に継承するという意味でも、国民が神に対する信仰新たに受け継いでいくという点でも「20年」という周期が最も適していると考えられています。 (御蔵に奉納する稲の最長貯蔵年限がちょうど20年くらいだからとする説もあります。)また、 式年遷宮は、技術や式法の継承のほかにも「地域経済を潤す」という効果があります。今回の遷宮に要する総予算は約550億円。そのうち330億円は神宮司庁が20年かけて遷宮資金として積み立てた資金で、残りの220億円は、全国に設立された奉賛会を主体として 、広く国民から募って集め られています。
もともと式年遷宮の経費は、「神領」と言われた伊勢や各地から納められる神税、国税、役夫工米(やくぶまい)等で賄われていましたが、鎌倉時代には 財源確保が苦しくなり、室町時代には式年遷宮ができなくなってしまいました。それから織田信長や豊臣秀吉の寄進で復興するまでの120年間は、修理だけの「仮遷宮」を続けていたため 、内宮(ないくう)も外宮(げくう)も荒廃していたということです。その後は、長く「皇家第一の重事、神宮無双の大営」として、国費や幕府の援助などの公費で賄われていましたが、昭和24年(1949)の第59回式年遷宮は、終戦後の混乱期と政教分離で一旦「無期延期」になり、財界有志が「日本の復興は、まずお伊勢さまから!」と設立したばかりの神社本庁に寄進して4年遅れで実施されたそうです。因みに、現在「神宮徴古館」に展示されている横山大観や前田青邨ら美術界の巨匠の作品は、この時に「我々の作品を売って資金にしてください」と奉納されたものだということです。
伊勢神宮は、内宮と外宮等 を合わせた総面積は約5千5百ヘクタール。その広さは伊勢市の約3分の1を占め、東京都世田谷区の全体の面積とほぼ同じということです。江戸時代には、日本の人口の6分の1にあたる500万人が「おかげ参り」に訪れたそうですが、平成24年は、内宮と外宮あわせて年間800万人以上の人々が参宮しており、遷宮を迎える今年は史上最高の1000万人以上が訪れるだろうと予想されています。今年は 、夏頃に公開される「お白石持行事(おしらいしもちぎょうじ)」から始まって、天皇陛下が日取りを決められると、いよいよ「遷御」に向けてたたみかけるように行事・祭事が続きます。 名古屋からは、「青空フリーパス」「お伊勢さんきっぷ」、新観光特急「しまかぜ」など、鉄道各社の企画もたくさんあるので、今年も時宜の「お伊勢参り」に精を出したいと思います。
今月は、庶民が「おおみたから」と呼ばれていた時代の春の都を表す「梅煙香 」(ばいえんこう)をご紹介いたしましょう。
「梅煙香」は、米川流香道『奥の橘(風)』に掲載のある春の組香です。同名の組香は共に香3種で、『御家流組香集(智)』の要素名は「梅」「煙」「ウ」、聞香秘録『香道真葛原(昇)』の要素名は「梅」「煙」「匂」、『軒のしのぶ(一)』の要素名は「梅」「煙」「客」となっており、下附に「難波」「塩竃」「賓」などをあしらってあります。その他にも「客香(ウ、匂、客)」を「香」とした組香もあります。これらは、「煙」と「烟」の表記や構造的な揺れはあるにしろ、香種と要素名の類似性からみて全て派生組かと思われます。「梅煙香」は、題号に「梅」の文字が用いられていることから、この時期にふさわしい組香として流派を問わず各所で催行されています。そのような中、今回は「梅煙香」 という題号の由来がわかりやすい『奥の橘』を出典として書き進めて参りたいと思います。
まず、この組香に証歌はありませんが、後にご紹介する「聞の名目」から2つの和歌が思い浮かびます。
1つは、「難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春辺と咲くやこの花(古今和歌集仮名序 王仁)」で「百人一首」の「序歌」や「這花香」にも用いられている有名な歌です。意味は「難波津に咲くよ、この花が。冬の厳しさに耐え、今は春になったと、咲くよ、この花が。」ということで、仁徳天皇(大鷦鷯帝:おほさざきのみかど)が難波で皇子だった時、弟皇子と春宮の位をたがいに譲り合って即位せず、 3年も経ってしまったので、百済の帰化人「王仁(わに)」が気がかりに思い、即位を促すために詠んで奉った歌です。当時の歌詠みに登場する「花」は「梅の花」を指すので、この歌は「梅の歌」と代表格となっています。
もう1つは「高き屋に登りて見れば煙たつ民のかまどはにぎはひにけり(新古今和歌集707 仁徳天皇)」という賀歌で、意味は「高殿に登ってみると多くの煙が立っている。民のかまどは豊かで賑わっているよ。(都は安泰になったな。)」ということでしょう。この歌には、「みつぎものゆるされて、くにとめるを御覧じて」との詞書があり、「仁徳天皇は 竈に煙すら上がらない民の生活を見ていたく嘆き、税を三年間免除して、様々な事業に専念した結果どの家々からも竈の煙が立ち昇った」との故事に因んだもので、古来、「天皇が庶民のことをいかによく考えてくださっていたか」を示す歌として敬愛を集めている歌です。
因みに、この歌は、延喜6年(906)の「日本紀竟宴和歌 (にほんぎきょうえんわか)」の「たかどのにのぼりてみれば天の下四方に煙りて今ぞ富みぬる」が誤伝または改作され、「仁徳天皇御製」として伝わった歌ということがわかっており、『水鏡』などには「仁徳天皇御製」とありますが、『和漢朗詠集』には「作者不明」として掲載されています。
次に、この組香の要素名は「梅」「煙」と「ウ」となっており、題号の「梅煙香」を 単に文字で分けた形となっています。そして、それぞれ「梅」が「難波津に・・・」、「煙」が「高き屋に・・・」の歌意と情趣を表すものとなっています。「客香」の「ウ」について 、他の「梅煙香」では「匂」「香」等の景色を付けたものもありますが、この組香では、単に聞の名目を結ぶためのニュートラルな要素として取り扱われています。この組香は「梅」と「煙」という「仁徳天皇が目にしたであろう都の景色」が共通項となっているため、香を聞く人を上代の「まほろば」に誘い、心遊ばせるのが趣旨となっています。
さて、この組香の構造は、「梅」と「煙」を3包ずつ、「ウ」を1包作り、このうち「梅」と「煙」を1包ずつ試香として焚き出します。すると、手元には「梅(2包)」「煙(2包)」「ウ(1包)」の計5包が残りますので、これを打ち交ぜて、任意に1包引き去ります。この段階で、引き去さられた香が「梅」の場合、本香は「梅(1包)」「煙(2包)」「ウ(1包)」となり、「煙」の場合は、本香は「梅(2包)」「煙(1包)」「ウ(1包)」となり、「ウ」の場合は「梅(2包)」「煙(2包)」の みの組合せとなります。このように引き去りの所作は、どの香がいくつ焚き出されるのかわからないように香の出にバリエーションを付けるために用いられます。
こうして香元は、本香4炉を順次焚き出しますが、出典では「四包を二包宛二段に焚く 」とあり、いわゆる「二*柱聞(にちゅうぎき)」として、後の「聞の名目」を結びやすいよう「香の区切り」に配慮することが書かれています。香元は、1炉目と2炉目、3炉目と4炉目を意識して焚き出し、連衆は、1炉目と2炉目を聞き終えたところで「聞の名目」と見合わせて一旦目星をつけ、3炉目と4炉目を聞き終えたところで最終回答のための調整を始めるとよいでしょう。本香が焚き終わりましたら、連衆は2炉を1組として、聞の名目を2つ名乗紙に書き記して提出します。
回答に使用する「聞の名目」は、下記のとおり配置されています。
香の出 |
聞の名目 |
梅・煙 |
古屋の都路(こやのみやこじ) |
煙・梅 |
高津の宮(たかつのみや) |
梅・ウ |
難波津に(なにわづに) |
ウ・梅 |
今を春辺と(いまをはるべと) |
梅・梅 |
咲くや此花(さくやこのまな)(※) |
煙・ウ |
高き屋(たかきや) |
ウ・煙 |
民の竈(たみのかまど) |
煙・煙 |
にぎはひにけり(※) |
このように、聞の名目は香の出の前後を考慮し、先ほど説明した2つの和歌の句を主体に配置されており、前述の和歌に無い名目として、「古屋の都路」と「高津の宮」が配置されています。「古屋の都路」については、『国歌大観』にもこの言葉が歌いこまれた和歌等はなく、出典は不明です。ただし、「古屋」については「虎に乗り古屋を越えて 青淵に鮫龍とり来む剣大刀もが(万葉集3833 境部王)」の用例が見られ、ここでは「ふるや」と読み「古い家々」のことを指しているようです。このことからすると「古屋の都路」は、「古い家が立ち並ぶ都の路」という意味で当時の都の風景を表した言葉ではないかと思います。一方、 「高津の宮」は、難波宮跡(大阪市東区法円坂町)にあったものとされる仁徳天皇の皇居のことです。 この2つの言葉は、「梅から煙を見上げる」下界の風景に「古屋の都路」、「煙から梅を見下げる」高台の風景に「高津の宮」というように、見る人の視点変換や立ち位置と呼応して採用されたものかと思われます。
2つの和歌の句が採用されている聞の名目については、例えば、「梅」と「ウ」の組合せでは、「梅」が先に出れば第1句、後に出れば第3句 というように「梅」の前後が句の序列と呼応しており、「梅」が2つ出た場合は第5句の晴れがましい詠嘆の句 (この歌では「咲くや此花」が2度出るところも趣旨に合っています。)を用いています。また、「煙と「ウ」の組合せも同じように解釈できます。因みに、出典では「梅煙、煙梅の名目は二つ出る事有り。」と注書きがあり、「古屋の都路(梅・煙)」 と「高津の宮(煙・梅)」 は、香の出によっては同じ名目2つで正解となることもあり得ることを示しています。
なお、表中(※)を付した聞の名目については、出典に欠落がありましたので、別書により補筆しています。
こうして 名乗紙が戻って参りましたら、執筆は連衆の答えた名目を全て書き記します。執筆が答えを請うたら、香元は香包を開いて正解を宣言します。答えは要素名で4つ宣言されますので、執筆はこれを香の出の欄に記載し ます。出典の「梅煙香之記」の記載例によれば、4つの要素は組ごとに並記し2列2行に記載することとなっています。 その後、執筆は聞の名目と見合わせて、正解となる2つの名目を定めます。
この組香の点法について、出典では「ウ交われば二点、独は三点、平点一点、最も長点なり。」とあり、執筆は正解と同じ名目の右肩に(複数の要素を含む名目の当たりを示す)「長点」を付します。長点の本数は、連衆の中で唯一正解した「独聞」には3本、客香 (試香で聞いたことのない香)である「ウ」を含む「難波津に」「今を春辺と」「高き屋」「民の竈」の4つ名目の当たりには2本、地の香 (試香で聞いたことのある香)である「梅」「煙」の組合せ「古屋の都路」「高津の宮」「咲くや此花」「にぎはひにけり」の4つの名目の当たりには1本を書き記します。
最後に、この組香に下附はなく、各自の得点は書き記された長点で示すこととなっており、勝負は長点の数が最も多い方のうち上席の方の勝ちとなります。
式年遷宮の第60回は「いざなぎ景気」、第61回は「バブル景気」でした。
第62回の今年は「アベノミクス景気」が民の竈を潤してくれるのでしょうか?
燦々と露を湛えて萌えいづる雪の小草や春来にけらし(921詠)
組香の解釈は、香席の景色を見渡すための一助に過ぎません。
最も尊重されるものは、皆さん自身が自由に思い浮かべる「心の風景」です。
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