須佐之男命にまつわる神話を題材にした組香です。
「八雲立つ須賀の原」の清々しさを味わいながら聞きましょう。
※ このコラムではフォントがないため「
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説明 |
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香木は5種用意します。
要素名は、「八重垣(やえがき)一」「八重垣二」「八重垣三」と「雙(そう)」「八雲(やくも)」です。
香名と木所は、景色のために書きましたので、季節や組香の趣旨に因んだものを自由に組んでください。
「八重垣一」「八重垣二」「八重垣三」は各2包、「
雙」と「八雲」は各1包作ります。(計8包)
このうち「八重垣一」「八重垣二」「八重垣三」の各1包を試香として焚き出します。(計3包)
手元に残った「八重垣一」「八重垣二」「八重垣三」の各1包に「雙」と「八雲」の各1包を加えて打ち交ぜます。(計5包)
ここから、任意に3包を引き去り、残る2包を本香とします。(5−3=2包)
本香は2炉廻ります。
連衆は、2炉を試香と聞き合せて、2つの要素から結ばれる「聞の名目(ききのみょうもく)」を1つ書き記して回答します。 (委細後述)
執筆は、連衆の答えを全て香記に書き記します 。
香元は、正解 の要素名を2つを宣言します。
執筆は、正解の名目を定めて 、同じもののみを当りとし、「雙」と「八雲」を含む名目には所定の点を掛けます。(委細後述)
下附は、正解の名目のみに「一双(いっそう)」と書き記します
勝負は、正解者のうち、上席の方の勝ちとなります。
遠くに煙る山波から湧き上る雲が階を重ねる季節となりました。
肥後の国に参りまして、バタバタと出張を繰り返していますうちに2か月が経ち、この地での生活のペースというものがやっと掴めて参りました。まず、この地に来てとても有難かったのは、住民登録の際に窓口でいただける「うぇるかむパスポート」でした。これは、熊本市営の記念館や観光施設が1年間無料で何度も入場できる冊子で、熊本入門の旅の道標としては格好のものでした。これを手に当地の「天・地・人」を辿る散策は、非常にフレンドリーで親切な各施設のスタッフの皆さんのおかげで、詳しい説明や歴史的背景も伺うことができ、非常に充実したものとなっています。
加藤清正公の菩提寺となる「本妙寺」の帰り道に立ち寄った「旧細川刑部邸」では、隣接した茶室「観川亭」で僅か200円の抹茶をいただきながら当地の茶道情勢についてお話をいただき「肥後古流」が土地の流派であることを知りました。繁華街の裏手にひっそりと佇む異空間を見つけて立ち寄った「小泉八雲熊本旧居」は、明治24年(1891)ラフカディオ・ハーンが松江から第五高等中学校(現:熊本大学)に赴任し、熊本に滞在した3年弱の歴史を当時の伝承を含めて伺えました。「水前寺成趣園」の駐輪場を探している時に偶然行き当たった「熊本洋学校教師ジェーンズ邸」は、大河ドラマ「八重の桜」で同志社英学校に合流し、大学の創始に貢献した「熊本バンド」の出身校、かつ日本赤十字社の前身となった「博愛社」の発祥の地でもあり、それらがキリスト教という精神的な支柱で結ばれていることを伺いました。こうしてみると、「目的地」と いうよりは、「偶然でくわした」建物を見てパスポートを確認して入っているケースが多いようです。これら市営の施設は、観光客で混雑しすぎない「穴場」的なところでもあり、施設の方も丁寧に時間をかけてお話しや説明をしていただけました。正に「土地を知るには人を知る」というところでしょうか、書物で得られるよりも「こなれた情報」が判り易く耳に入って来ました。
そのような中、「西南戦争」が地元の人の歴史観に最も克明な境を成しており、その前後で語り口調も変わるということに驚きました。私は東北の人間ですから、所謂「薩長土肥」は一絡げにして「奥州列藩同盟の仇」という認識を持っていましたが、「肥」の字は「肥前」であり、「肥後」は含まないということをこの地で初めて知りました。そのため、明治維新に乗り遅れた肥後の国は、外国人を登用し、教育や殖産興業に力を注いで「薩長土肥」に追いつこうとしていた訳です。そうしている間に、明治10年(1877)日本最大の内戦である「西南戦争」が起き、官軍の熊本鎮台司令長官の谷干城(たにたてき)が熊本城で籠城戦を展開したため、市中は戦火に焼かれました。援軍の到着で形勢は一変し、薩軍の包囲が解かれ、最終的に官軍が勝利したと言っても地域 が受けた痛手は甚大なものでした。
私は、それまで東北と九州は「敗者と勝者」の関係であると思っていました。事実、長州の人は、今でも「東北人」と聞くと「会津ですか?」と聞き返すくらい「勝者としての配慮」を意識していますし、会津に至っては、「意識」以上の感情を持っています。しかし、この九州では、薩軍は田原坂での敗戦、官軍は籠城戦による悲惨な窮状と城外での阿鼻叫喚の有り様を目の当たりにしたことによって、「戊辰戦争」の勝利を「西南戦争」が打ち消してしまったのではないかと思うほど「勝組意識」はなく、むしろ白虎隊や若松城籠城戦と同様の敗者的な史観を持っているような気がしました。そのため東北人が内心「敗者」を意識したとしても、地元の感情は既に「勝者無し」なので しょう。また、その後の中央集権下で等閑に扱われてきた「辺境の住人同士」として通じるものが非常に多く、すぐに仲良く打ち解けることができるのでした。「肥後もっこす」も「津軽じょっぱり」と似ており、外殻は固いですが、一歩踏み出せば中身は柔らかいです。この土地に招かれた人は、殻を脱いだ「もっこす」の「柔らかさ」に助けられているのだと思います。
今月は、須佐之男命の更生のはじまりの景色ともいえる「八雲香」(やくもこう)をご紹介いたしましょう。
「八雲香」は、聞香秘録の『香道真葛原(下)』に掲載のある組香です。先日「小泉八雲熊本旧居」を訪れたものですから、まず題号の「八雲」が目に留まりました。ギリシャで生まれのラフカディオ・ハーンが明治29年(1896)に日本に帰化し「八雲」と号したのは、最初に赴任した神話の故郷「出雲」でたくさんの「伝承ごと」に触れたからなのでしょう。折よく、私も電子ブック『眠れないほど面白い古事記』で、子供の頃に絵本で読んだ昔話を「大人の寓話」として読み返していたところだったので、この難解な組香の趣旨をかろうじて読み解くことができました。今回は他書に類例を見ない組香でしたので、『香道真葛原』を出典として筆を進めたいと思います。
まず、この組香に証歌はありません。ただし、小記録に記載された「八重垣」の文字で上級者の方ならば、『古事記』や『万葉集』等に掲載されている「八雲立つ出雲八重垣妻籠つまごみに八重垣作るその八重垣を」という日本最古の和歌を思い出すかもしれません。八雲(やくも)とは、読んで字の如く「幾重にも重なり合った雲」のことをいうのが一般的ですが、この歌の三十一文字から和歌が始まったとされているため、「和歌の異称」ともされているほか、「出雲にかかる枕詞」や「出雲そのもの」を表すこともあります。歌の意味は、「雲が幾重にも立ちのぼっている。出雲の国に八重垣を巡らすように、美しい雲が立ちのぼる。私は妻を得て宮殿に籠らすために、何重もの垣を作ったけれど、ちょうどそのような素晴らしい八重垣であることよ」と言ったところでしょうか、歌中にしつこいほどに「八重垣」という言葉を幾重にも重ねた「八重垣構造」が印象深い歌です。
ここで、この歌の前段には、このような物語が書かれています。
「八俣の大蛇(やまたのおろち)を退治して、『草薙の剣』を手にした須佐之男命が櫛名田姫(くしなだひめ)を娶り、宮殿を造るべき土地を求めて出雲の国をさすらっていたところ、緑の多い広い土地を見出して「ここに来て我が心は清々しくなった」と言って、そこを「須賀の地」と名付け宮殿を造ることにしました。正にその時、出雲という名前にふさわしい雲が立ちのぼり、荘厳な風景を見せたので、須佐之男命は感動と喜びを歌に託してこう詠みました。」
この歌は、高天原から追放された残虐非道な暴れん坊の須佐之男命が櫛名田姫との結婚を機に天照大御神との対立もなくなり、大きく成長していく幸せな時期の始まりを暗示しています。後述する要素名で、重ね重ね「八重垣」を多用するところや、札の銘などからも、おそらくこの歌が、この組香の文学的支柱を成す「証歌」であろうと思います。この歌には所謂季語は含まれておらず、後述する聞の名目では四季に通ずる景色が配置されていることから「四季組」ということもできるかと思いますが、敢て、季節を絞れば「八雲立つ」から、青空に入道雲が立ち始める「夏」にふさわしい組香ではないかと思います。
次に、この組香の要素名は「八重垣一」「八重垣二」「八重垣三」と「雙」、「八雲」です。「八重垣」とは「幾重にも巡らした垣根」のことで、この要素が3種登場するのは、先ほど「証歌」と仮定した「八雲立つ」の歌に「八重垣」が3つ詠み込まれているからだと思います。また、「雙」とは「ふたつ一組」のことで須佐之男命と櫛名田姫の夫婦を表 すものと思われます。そして、「八雲」とは「幾重にものぼり立つ雲」のことで「出雲」という土地を含めた荘厳な舞台背景を表しているのではないでしょうか?そうすると、この組香の要素名は全て「証歌」の情景を表したものということができます。
さて、この組香の構造は至って簡単です。香種は5種で歌の5句と一致します。全体香数は8包ですが、本香の元となる香包は5種 で各1香の5包となります。「証歌」の「籠つまごみに」の句に夫婦を連想させる「雙」 を当てると仮定してしまえば、あとは「八雲」「八重垣一」「八重垣二」「八重垣三」ですから、歌の5句を要素名に分割した「宇治山香」のような形式と言ってもいいでしょう。まず、香包は「八重垣一」「八重垣二」「八重垣三」を各2包、「雙」と「八雲」は各1包作ります。そのうち、「八重垣一」「八重垣二」「八重垣三」の各1包を試香として焚き出します。本香ついて、出典では「右試み三種終、本香五包打交合、内二包取り壱度に聞き、二*柱嗅て名乗紙に書記出す」とあり、「八重垣一」「八重垣二」「八重垣三」「雙」「八雲」の各1包(計5包)を打ち交ぜて、任意に3包引き去り、手元に残った2包を本香として焚き出します。引き去った3包は「捨て香」として、総包に戻します。本香数を2香1組として焚き出すのは、須佐之男命と櫛名田姫の 陰陽和合の暗示ではないかと思います。
ここで、出典では先述の通り「名乗紙に書き記して出す」と書いておきながら、次の項に「香札の紋」が記載されています。まず、答えとなる札裏の紋については、「香札 裏名 一、二、三、ウ、ウ 壱人前五枚なり」とあり、香札には十種香札も流用できそうです。また、各自の名乗となる札表の紋について、「表名 玉、鏡、剣、幣、靭、榊、柏、襷、籬、髪」とあります。ここには「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)」といった三種の神器や「幣(ぬさ)靭(うつぼ)、榊(さかき)、柏(かしわ)、襷(たすき)、籬(まがき)、髪(かみ)」といった神事に使用する捧げ物や装飾品が配置されており、これが組香と古事記の世界を結びつける手かがりとなりました。
ただし、この組香には客香が2種ありますので、札打ちの方式をとりますと客香である「雙」と「八雲」の区別は付けずに「ウ」として回答して良いことになります。すると、例えば、連衆が1炉ごとに「一・ウ」と打った札は「八重垣一・雙」「八重垣一・八雲」 、「ウ・一」と打った札は「雙・八重垣一」「八雲・八重垣一」の2種類の正解を導くこととなり ます。さらに、この組香は答えの当否が2つの香の前後は問わない「名目」で決定されるため、2*柱聞として、「一」と「ウ」を一度に2枚投票すると上記の4種類の香の出を全て表すこととなり、かなり作りが粗っぽい感じがします。そのため、このコラムでは「手記録使用の後開き」形式を優先させ て以下の手順を書き進めます。
続いて、香元は本香2包を「初炉・後炉」と続けて焚き出します。連衆は、これを試香と聞きあわせて、2つの香を聞き終わったところで、あらかじめ配置された「聞の名目」を1つ名乗紙に書き記して提出します。聞の名目は、下記のとおり2つの香の前後は問わず記載するように配置されています。
香の出(逆順) | 聞の名目 |
一・二(二・一) | 左右(さゆう) |
一・三(三・一) | 空背貝(うつせがい) |
一・雙(雙・一) | 秋はね(あきはね) |
一・八雲(八雲・一) | 東鈿常(?) |
二・三(三・二) | 日月(にちげつ) |
二・雙(雙・二) | 春鳥(はるどり) |
二・八雲(八雲・二) | 日倉足(ひぐらし) |
三・雙(雙・三) | 川津(かわづ) |
三・八雲(八雲・三) | 三五夜(さんごや) |
雙・八雲(八雲・雙) | 九雪(きゅうせつ) |
このように、おおむね「陰陽の対比」や「四季の事物」を散りばめた名目が配置されています。とはいえ、「三と八雲で何故雲の似つかわしくない三五夜 (十五夜)なのか?」等、要素名の組合せと名目の表す景色等について明確に言い当てることはできません。また、名目の出典が『古事記』や『万葉集』にあるものとも思われず、言葉の意味すら現在の辞書では尋ね当らないものもありましたので、まともな解説ができませんことをご容赦ください。
その中では「日倉足」は、蝉の「ヒグラシ」の万葉集仮名表記であることがわかりました。『万葉集』には、「日晩」「日倉足」「日晩之」「比具良之」などの表記があり、蝉の名前はヒグラシしか詠まれていません。「空背貝」は、「空貝(うつせがい)」に万葉集仮名の「背」を送ったもので、海岸に打ち寄せられた貝殻のことです。和歌では「虚貝」とも表記し「実なし」「むなし」「あはず」や「うつし心(移り気)」など悲しい恋心を表すのに用いられている言葉です。「秋はね」と「九雪」は、誤読とは思えないのですが現在の辞書に掲載がなく、意味が判然としていません。おそらく「秋はね」は「秋羽」から「赤とんぼ」、「九雪」は「九品の雪」のような冬の景色なのだろうと思います。 さらに「東鈿常」については、読み方も意味も分かりませんでした。これについては誤読の可能性もあるため、出典の表記を掲載しておき、読者の方の判断にお任せしたいと思います。何か情報がありましたらお知らせください。
本香が焚き終わり名乗紙が戻って参りましたら、執筆はこれを開いて各自の答えを全て書き写します。執筆が答えを請う仕草をしましたら、香元は香包を開いて正解を宣言します。正解は、要素名が2つ宣言されますので、執筆はこれを香の出の欄に書き記し、香の組合せから正解となる聞の名目を定め、各自の答えのうち同じ名目のみを当たりとします。当たりの表記方法については、通常であれば「長点」を名目の右肩に 掛けるのですが、これについて出典には「雙香嗅当りは左点、八雲香聞当りは右点なり。八重垣の香聞当りは点に及ばず」とあり、「雙」と「八雲」の当たりについてのみ、「雙」の当たりは名目の左肩に「八雲」の当たりは右肩に「点」を掛けます。例えば、香の出が「八重垣一・八重垣二」など地の香の組合せの場合、正解には点を付さないこととなっています。その代わり出典では「二*柱とも当りは一双と書く」とあり、香記の下附の部分で正解したことを表すこととなっています。「一双」とは「ふたつで一組になっているもの」という意味で、 要素名の「雙」とは表記が違いますが、辞書的な意味は同じです。ここでは須佐之男命と櫛名田姫の夫婦和合を表すものと解釈されます が、2人で居る「雙」の景色からより進んで、「双」には1つになるようなニュアンスを込めて、作者は要素名の「雙」と下附の「双」を使い分けているような気がします。
また、この組香では、2つの香の前後を問わずに当否を決めるため、前後の要素のどちらかが当たった場合を得点とする「片当り」はありません 。そのため、この組香の下附は、聞の名目が正解と一致した際の「一双」のみであり、点数を書き付すこともありません。この記録法に則りますと、香記の上で最も 華やかになるのは「雙・八雲」が出た場合の正解「九雪」であり、この場合は「九雪」の左右に「ハの字」の点が付き、「一双」と下附されることになります。
最後に勝負は、正解者のうち上席の方の勝ちとなります。この組香は「二*柱組」のため、正解者が現れない場合もあります。その際は、当座の衆議で香記を授与してください。
「八雲香」は、組香の題材としては最も古い文学作品ともいえる「神話」の景色を写している珍しい組香です。皆さんも梅雨の鬱陶しい時期に「八雲香」を催して「広い草原に立った時の清々しい気持ち」を味わってみてはいかがでしょうか?
神話の舞台に近い熊本ですが名古屋では辻々に点在した「須佐之男神社」が見られません。
どうも球磨国は彼の九州統一に対立して追い返していたようですね。
これも「肥後もっこす」でしょうか?
神泉にしげき白雨の打ちかかり凛と艶なす貌佳花かな(921詠)
組香の解釈は、香席の景色を見渡すための一助に過ぎません。
最も尊重されるものは、皆さん自身が自由に思い浮かべる「心の風景」です。
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