二月の組香
古今集の巻頭歌と追儺式をモチーフにした組香です。
節気と暦日の時間差の面白さを味わって聞きましょう。
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説明 |
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香木は、2種用意します。
要素名は、「一」と「二」です。
香名と木所は、景色のために書きましたので、季節や組香の趣旨に因んだものを自由に組んでください。
「一」は3包、「二」は2包を作ります。(計5包)
そのうち「一」の1包を試香として焚き出します。(計 1包)
手元に残った「一」「 二」の各2包を打ち交ぜて、2包×2組として順に焚き出します。(2×2=計4包)
本香は、「二*柱聞(にちゅうぎき)」で4炉廻ります。
連衆は、2炉ごとに試香に聞き合わせて、「聞の名目(ききのみょうもく)」を2つ名乗紙に書き記して回答します。
執筆は、連衆の答えを全て香記の回答欄に書き写します。
点数は、要素名の当りにつき1点 とし、名目が違っていても前後を構成する要素が当たっていれば合点を1つ掛けます。
名目ごと当たっている場合は2点とし、答えの右肩に 合点を2つ掛けて表します。
この組香に下附はありません。
勝負は最高得点者のうち上席の方の勝ちとなります。
樹々の蕾が明るく色づく季節となりました。
2月の風物詩というと「柊鰯(ひいらぎいわし)」と「恵方巻」という方も多いと思います。「柊鰯」は福島県以南にはある風習らしいのですが、私の住む東北地方ではあまり普及しておらず、初めて見たのは数年前のことでした。岐阜県の七宗町に出張した際、お昼休みに住宅地を散歩していますと戸口の柱に立てられた「柊鰯」を発見!もちろん知識として、その由来と効用は知っていましたが、現物は初めてだったため 公道上からじっくり観察できるものを探して「鬼が嫌う」という匂いを嗅いだり、写真を撮ったりしました。この地域は残らず飾ってあったので「これが古文の教科書にも出てきた『追儺』の風習かぁ〜」と感動したものです。
「柊鰯」は、今でも地元のスーパー売っていたりするようなことはありまんせんが、「恵方巻」は御多聞に漏れずコンビニの販売戦略で西の方から一気に押し寄せてきました。これは問答無用の黒船のよう なもので、今では地産地消をモットーとする「生協」にもたくさん売っています。今年の恵方は「東北東」のようです。西の皆さんが我庵の方を向いて、海苔巻きをかぶりつく姿が目に浮かびます。どうぞ、売り残し、食べ残しのありませんように・・・。
今月は、年越し前に立春を迎えた複雑な心境を写した「追儺香」(ついなこう)をご紹介いたしましょう。
追儺香は、『御家流組香追加(全)』に掲載された、春の組香です。同名の組香は、『香道蘭 之園(七巻)』をはじめ、日本香道協会の『香越理(第十九号)』や保科儒一編の『香道の栞(二)』など昭和の香書にも掲載があり、その記述は、ほぼ共通しています。2月が旧正月と言われることは皆さんご存知でしょうが、今年は2月5日が旧暦の元旦にあたります。みちのくの立春は、まだまだ寒さ厳しい季節の真っ只中ですが、名古屋や熊本に居た頃は、陽光が力強くなり、天神さんの梅の花が咲き始めるという文字通りの「春立つ日」を実感していました。今月の組香をご紹介するにあたり、例によって古書を紐解きましたところ、春の定番となっても良いほど簡潔で 、誰でもが参席しやすい「追儺香」が「梅花」の組香に埋もれていましたので、この季に掘り出してご紹介することといたしました。そのようなわけで、今回は類例豊富なのですが、中でも最も伝来が古い『御家流組香追加』を出典として書き進めたいと思います。
まず、この組香の題号は「追儺香」となっています。「追儺」とは、古代中国から飛鳥時代(592〜710年)に日本に伝わり、「疫病神」を追い払う儀式として定着して以来、「追儺式」として毎年大晦日(旧暦12月30日)に行われていた宮中行事でした。これは、大舎人(おおとねり)が、衣朱裳の袍を着て、金色の四つ目をもった面をつけ、右手に矛、左手には楯という扮装をし、「方相氏(ほうそうし)」と呼ばれる「鬼を払う役目」を負います。また、方相氏の脇に仕える「侲子(しんし)」と呼ばれる役人を20名ほど従えていました。陰陽師が祭文を奏し終え、方相氏が大声を発して矛で盾を3回打つと、皆呼応して大内裏の中を大声を出しながら回って疫鬼を追い払います。この時、殿上人は清涼殿の階から方相氏を「援護するために」桃弓で葦矢を放ち、振り鼓をふって厄を払いました。これがいつの間にか方相氏が鬼として追われる立場にかわり、現在の「鬼やらい」の姿に至るというわけです。このように、この組香は立春に前後して訪れる追儺の日(大晦日)を舞台としています。
次に、この組香には証歌があります。
「年のうちに春は来にけり一年を去年とや言はん今年とや言はん(古今和歌集1:在原元方)」
これは、『古今集』全巻の巻頭を飾る一首「巻頭歌」として有名な歌で、詞書に「ふる年に春立ちける日よめる」とあります。意味は「暦ではまだ12月中なのに立春を迎えた。この一年を去年と言えばいいのか、今年と言えばいいのか。」ということでしょう。
旧暦では、「新春」と言えども立春と元日は必ずしも一致せず、「立春」が旧年12月に来てしまうことを「年内立春」、新年1月に来たもの「新年立春」と呼びました。特に元旦と立春が一致した場合は「朔旦立春(さくたんりっしゅん)」と呼び、非常に縁起のよい日としていました。因みに今年は、立春が2月4日、旧暦の元旦が2月5日なので、立春は大晦日(追儺の日)に来たこととなり「年内立春」となります。大晦日=追儺ですから、この組香のシチュエーションは、まさに「追儺の日に立春が来ちゃった なー。明日が元日(新春)なのに・・・」という詠み手の気持ちと合致しています。
証歌の詠み人である在原元方(ありはらの もとかた)は、平安時代の歌人で、在原業平の孫です。生没年代は不詳(一説に仁和4年(888)〜天暦7年(953)) で経歴もはっきりしていませんが、宇多・醍醐朝の歌合にしばしば出詠し、『古今集』に掲載された12首を含め、勅撰集に計33首が入集しており、「中古三十六歌仙 」に名を連ねています。
この組香の証歌は、まさしく「年内立春」の暦日と節気のズレを理知的に読込んだ歌です。昔の「追儺」は 、「元旦(暦日)の前日」つまり12月の行事(閏12月も含む)と決まっていたので、「春がは来ちゃった」と歌が詠まれた追儺式は、立春(節気)の後日に行われることとなります。一方、「新年立春」であれば、追儺式は立春の前に行われていたことになります。現在は太陽暦で統一され、「元旦は1月」、「追儺」は「立春の前日(春の節分)」で2月の行事と決まっているため、このような混乱はありません。
因みに、志野流には節分の豆まきの景色を写した「節分香」という新作の3種組があり、要素名が「青」「黄」「赤」で、各種試香を聞いた後「青(1包)」「黄(2包)」「赤(3包)」の本香6包を打ち交ぜて 焚き出し、全問正解には「福は内」と書くそうです。節分は「豆まき」に限らず、立春、立夏、立秋、立冬の年4回ありますので、それぞれの季節で下附を変えれば汎用が効き そうですね。
続いて、この組香の要素名は「一」「二」と匿名化されており、答えとなる「聞の名目 」を導き出す素材として扱われています。小記録を見ますと証歌以外に「春」という言葉がなく、「利休の朝顔」を思わせるような潔さがあります。昔の「追儺」は立春を跨いで前後していましたので、時の流れの中に1輪咲く「春」が蕾であっても、咲いていても、題号にふさわしい景色だと私は感銘を受けました。
さて、この組香の香種は2種、全体香数は5包、本香数は4炉で構造は至って簡単です。まず、「一」は3包、「二」は2包作り、そのうち「一」の1包のみ試香として焚き出します。次に、手元に残った「一」「二」の各2包を打ち交ぜます。本香は、出典に「二*柱づつ聞く」とあり、2包ずつ2組として都合4包を「二*柱聞」で焚き出します。
因みに、『蘭之園』では「二*柱ぎき也」とあり ますが、『香道の栞』では「二*柱開(にちゅうびらき)」と なっています。また、このことについて『香越理』には明記されていませんが2炉ごとに聞の名目に当てはめることは小記録から察しがつきます。
「二*柱開」とは、「二炉ごとに答えを提出し、正解を発表し、香記に当否を認める聞き方」を言いますが、この組香でこの方式を取ると、最初の2炉の正解が判明した時点で、次の2炉の正解が自明となってしまうことから、江戸期に書かれた二冊の伝書に基づき「二*柱聞」を正当として「2炉ごとに判別し、後でまとめて名乗紙に書いて回答する」こととしました。
そこで、香元は、組の前後を意識して、本香を「初・後」「初・後」と焚き出します。連衆はこれを聞き、試香で聞いた「一」の香りでないものを「二」と判別します。回答にあたっては、2炉ごとに組み合わせて聞の名目を1つ答えることとなっており、出典では「組合名左のごとし」と下記のとおり聞の名目が配置されています。
香の出 | 聞の名目 |
一・一 | 年の内(としのうち) |
一・二 | 今年(ことし) |
二・一 | 去年(こぞ) |
二・二 | 一年(ひととせ) |
これは、証歌の各句に詠まれている「年」を引用した言葉であり、時の景色と言えましょう。香の出によって、今が今年となったり去年となったりと揺れ動く景色が、まさに詠み人の困惑ぶり(歌意)と一致しているようです。それにしても、和歌の5句中4句に「年」の字を用いるという詠み手の趣向もなかなかの冒険だと思います。
因みに、昭和の香書である『香道の栞』と『香越理』では、「二・二」は「春は来にけり」となっており、これも証歌の一句から引用された言葉となっています。『香越理』に掲載された香記は、昭和58年11月に明治神宮桃林荘で共立女子大香道部「霜葉会」が三條西堯雲宗匠の出香で催行された時のものです。昭和58年といえば『香道の栞(一)』の出版と同時期ですので、当時の御家流宗家直門では、既にこの名目が使われていたことが分かります。 おそらくは、先代の尭山宗匠あたりが「春らしい華やかさ」を香記に散らすためにアレンジされたものではないかと思 っています。一方、江戸期の伝書である出典と『蘭之園』には「一とせ」と表記があり、私は枯淡派なので、「春」が香記に一 つだけ現れる出典の景色を採用しました。なお『奥の橘(月)』の目次にも追加十組として「追儺香」の題号が記載されていますが、書写の際に読み飛ばしたのか、本文には何も掲載されていないため多数決に は至りませんでした。
続いて、本香が焚き終わりましたら、連衆は名乗紙に 「聞の名目」を2つ記載して回答します。名乗紙が返って参りましたら、執筆は香記を仕上げる段となりますが、出典には記録法についての記載がないため、ここからは唯一記載例のある『蘭 之園』に準じて書き進めることといたします。
執筆は、各自の答えを全て書き写し、香元に正解を請います。香元は、香包を開き正解を宣言します。執筆はこれを聞き、香の出の欄に要素名を出た順に書き記します。次に執筆は、要素の組合せにより正解となる「聞の名目」を定め、当たった名目に合点を掛けます。
この組香の点法について、出典では「中り一点、違い星なし」とあるだけですが、『蘭 之園』の記載例によれば、「聞の名目」そのものの当りは、要素名を2つ聞き当てているので2点、また、「聞の名目」が合致しなくとも構成する要素が聞き当たっていれば1点とする「片当たり」方式が採用されています。例えば正解が「一・一」の場合、「年の内(一・一)」と答えた人は2点、「今年(一・二)」と答えた人は1点となります。これに基づき、執筆は当たった名目の右肩に得点の数だけ合点を掛けます。
なお、この組香に下附はなく、合点の数が成績を表すこととなっています。「下附なし」を明言しているのは『香道の栞』だけですが、『蘭 之園』の「追儺香之記」の記載例にも下附はありませんでした。
最後に勝負は、最高得点者のうち、上席の方の勝ちとなります。
春の息吹が次第に体感できるようになるこの季節に皆様も「追儺香」で「鬼やらい」に興じ、香席に咲く「春」一輪を楽しんでみてはいかがでしょうか。
最近の「朔旦立春」は1992年で娘が最初に迎えた旧正月でした。
次回は2038年と予測されていますが、天体の動き次第なのでなんとも言えません。
私の余命の方が心配かも…(#^.^#)
我が里に雪代水や下るらん可愛い芽ぐみの色挿す岸辺(921詠)
組香の解釈は、香席の景色を見渡すための一助に過ぎません。
最も尊重されるものは、皆さん自身が自由に思い浮かべる「心の風景」です。
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