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説明 |
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香木は、4種用意します。
要素名は、「柑(こうじ)」「枇杷(びわ)」「枳(からたち)」と「橘(たちばな)」です。
香名と木所は、景色のために書きましたので、季節感や趣旨に合うものを自由に組んでください。
「柑」「枇杷」「枳」は各4包、「橘」は1包作ります。(計 13包)
まず、「柑」「枇杷」「枳」のうち各1包を試香として焚き出します。(計3包)
手元に残った「柑」「枇杷」「枳」から各1包を引き去ります。(−13 計3包)
そうして、手元に残った「柑」「枇杷」「枳」の各2包を打ち交ぜます。(計6包)
本香A段は、6炉焚き出します。
先ほど引き去っておいた−13 +1−3=計1包)
本香B段は、1炉焚き出します
連衆は、試香に聞き合わせて要素名を出た順に名乗紙に7つ書き記します。
点数と合点は、「橘」の当たりを2点とし、その他は1点とします。
下附は、全問正解は「全」、その他は「点数」を漢数字で書き附します。
勝負は、最高得点者のうち 上席の方の勝ちとなります。
陽樹の庭に枇杷の実が目に鮮やかな季節となりました。
風薫る五月となり、辺りは花木の香りに満たされて参りました。私は、以前に「五月の散歩は、様々に色の異なる気団を縫って歩くようで楽しい」と書いたことがあります。これは、私の鼻腔センサーと右脳の連携が成せる技なのですが、樹木や花の発する様々な香りを「色と形」に変えて感ずることのできる日常が本当に愉快でした。また、「すれ違う女性の追い風から年齢を当てる」という不謹慎な心の遊びも気ぜわしく不快な都市の勤労生活から私を救ってくれたものです。
しかし、すべてがマスク越しの日々は、もはや2年目を迎えました。今、「マスク越しで感じられるもの」は、我が老体の口と鼻から出る臭気をキャリブレーション(較正)して、得られた「無臭」の反芻です。かなりな臭気をマイナス補正しているため、おそらく鼻腔は、外界から到来する香をほとんど感ずることができないようになっているのでしょう。このような生活を長く続けていると、嗅覚を研ぎ澄ます日常的な訓練の機会が失われますので、微妙な香りがわからない「香音痴」や「味音痴」の増加にますます拍車がかかるのではないかと危惧しています。
人間の鼻腔センサーは最も退化した五感の一つです。人間の感じることのできる匂いは数十万種類あるのに比べて、鼻腔の嗅細胞は約380種類しかありません。これを組み合わせて「数十万」の匂いを判別するのですから、1つ1つの嗅細胞の感覚がとても大事だということになります。昔は、人間も野生動物と同等に匂いで「敵」や「味方」を判断したり、種の保存に適したDNAの遠い「異性」を見つけたり、数Km先の「水」や「食料」を探したり、様々な情報収集やコミュニケーションの手段としても利用していたのでしょう。かなり愚鈍になった現代人の嗅覚でも食物の「食べごろ」を知り、「腐敗」や「有毒」から命を守りすることはできますが、それすらも使わずに「賞味期限」に頼っている人は多いと思います。一方、能科学の分野では、匂いはもっとも直接的に「本能」と「情動」に働きかける感覚といわれています。皆さんも、匂いを嗅ぐことで昔の体験がまざまざとよみがえるという体験をされたことはあるでしょう。そういう意味で、匂いは、とても効率の良い保存記録のインデックスであるとも言えます。これを自らのアイデンティティとして利用したのが中世の宮人たちの薫りであり、こうして翫香の文化も発生し、育まれて来たとのだと思います。
マスク生活は、いい意味で「お互いの臭気を干渉し合わない」ため、「疎遠」を好む方には好都合のところもあります。私も行き過ぎたデオドラントや柔軟剤による香の暴力にさらされることは少なくなりましたが、その一方で、「パステルカラーの気団をフワフワとかき分けて歩く感覚」や、道端でふと「あの時のあの人との情景」が蘇るようなチャンスは失われました。来年の薫風は「おなか一杯」になるまで堪能できますよう祈ってやみません。
今月は、橘の香りで昔の人を思い出す「盧橘香」(ろきつこう)をご紹介いたしましょう。
「盧橘香」は、杉本文太郎著の『香道』に掲載のある「夏の組香」です。また、兄妹本である水原翠香著の『茶道と香道』にもたった4行で短く紹介されています。一方、志野流系の夏の定番組香として現在でも催行されている「盧橘香」(『志野流組香目録』の外組に掲載のあるものがこれか?)は、香三種で要素名を「葉」「花」「実」とし、本香は「葉」が3包、「花」が2包、「実」が1包の計6炉となっており、要素名の当たり方によって漢詩の句や和歌を書くというものです。今回もご紹介する組香を選ぶ段となって、昨年に「躑躅香」に競り負けた「盧橘香」のことを思い出しました。5月といえば「甲の甲」と言える言い古された組香ですが、敢えて『香道』に掲載のある「盧橘香」をご紹介することによって、季節にふさわしく新規性も出るかと思いました。このようなことから、今回は『香道』を出典として書き進めて参りたいと思います。
まず、この組香には証歌があります。出典には「末に書く歌」とあり、連衆の当否に関わらず、記録の奥に記載されますので、この歌が組香の文学的支柱ととらえて良いでしょう。
さつきまつ花橘のかをかげば昔の人の袖のかぞする(古今和歌集139 よみ人しらず)
意味は、「夏の五月を待って咲く花橘の香りを嗅ぐと、もと知っていた人の焚き込んでいた袖の香りがする思いだ。(貴女はどうだろうか?)」というところでしょう。
この歌は、高校時代の古文の時間に『伊勢物語』(六十段)』でご存じの方が多いと思います。
あらすじは、「男の妻が、あまりに放っておかれたので他の男と出奔し、男が勅使として接待された先で元妻と再会し、酒とともに出されていた花橘を手に取って『さつきまつ・・・』の歌を詠んだ。彼女は、この歌を聞いて目の前にいる役人が自分の元夫だと気づき、昔のことを思い出して辛くなり、尼になって山の中で暮らした。」というものです。
『古今和歌集』の詠み人は、「昔のあの人の袖の香りがすることよ」と思い出しただけで、「貴女はどうだろうか?」までを詠みこんだかどうかは定かではありませんが、『伊勢物語』では女に対する恋慕や未練や恨み言など様々な情が含まれた歌となっています。このように、この組香は「橘の香りで昔の人を思い出す」という情景を醸し出すことが趣旨となっています。
次に、この組香の要素名は、「柑」「枇杷」「枳」と「橘」となっています。
「柑」は、日本で古くから栽培されていた柑橘類の「柑子(こうじ)」のことです。夏に花が咲き、秋に濃い黄色の実をつけ、酸味が強いですが実は食べられます。《季 花=夏、実=秋》。
「枇杷」は、当節には欠かせない高級果実です。冬に咲く花の香りも素晴らしいものがあります。《季実=夏、花=冬》。
「枳」は、刺があるため古くから生垣に使われています。実は秋に熟して芳香はありますが食べられません。《季花=春、実=秋》。
「橘」は、枝に棘をもち、初夏に白い花を咲かせます。秋に成る実は小さく、黄熟しても酸味が強く苦みもあるので食べられません。 『古事記』には不老不死の霊力を持った「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」が橘だとされ、京都御所の「右近の橘」はこれに因んで植えられたとされています。《季花=夏、実=秋》
このように、この組香では、ミカン科の常緑小高木である「柑」「枳」「橘」を「花」の景色としてます。そして、唯一バラ科の常緑高木である「枇杷」だけが「実」の景色となります。そして、これらすべてが常緑ですので、艶々した緑の「葉」も景色ととらえて良いでしょう。そう考えると、同名異組の「葉」「花」「実」の構造も見えて来るから不思議です。
このように、この組香は、五月を舞台に、似たような「白い花」と「緑の葉」を茂らせ、そこに一つだけ「橙色の実」を際立たせて、そこから「橘の香りがするかどうか」を聞きあてる趣向となっていることがわかります。
さて、この組香の香種は4種、全体香数は10包、本香数は7炉となっており、構造はやや複雑です。まず、「柑」「枇杷」「枳」を4包ずつ作り、「橘」は1包作ります。次に、「柑」「枇杷」「枳」のうち各1包を試香として焚き出します。続いて、手元に残った「柑」「枇杷」「枳」の各3包から、さらに1包ずつ引き去ります。そうして、最後まで手元に残った「柑」「枇杷」「枳」の各2包を打ち交ぜて、本香A段は6炉廻ります。続いて、先ほど引き去っておいた「柑」「枇杷」「枳」の各1包に「橘」の1包を加えて打ち交ぜ、そこから3包を任意に引き去ります。そうして手元に残った1包を本香B段として焚き出します。このように、本香を2段に分けて焚き出すところが、この組香の特徴と言えましょう。
本香A段が焚き出されましたら、連衆はこれを聞き、これと思う要素名を名乗紙に6つ書き記します。これは、すべて試香で聞いたことのある香なので造作ないでしょう。本香B段は、「柑」「枇杷」「枳」「橘」のうちどれか1つが出るということになります。聞いたことのない香があれば、それは「橘」ということになりますので、試香に聞き合わせて、これと思う要素名を「少し開けて」1つ名乗紙に書き記して答えます。一般的には、A段は、五月の散策ととらえれば良いわけですから、出て来る香りをゆったりと堪能されればよろしいかと思います。B段は、立ち止まって今までにはしなかった「橘」の香りを探してみる感じかと思います。これを『伊勢物語』に反映させると、A段は、男が豊前の国に向かう五月の道行を楽しむ段なのでしょう。一方、B段は、接待役人の家の中で昔の人を探す段となります。このように、引き去りの妙によっては、B段に「橘」は出ず、「橘が見つからない夏景色」や「昔の人に香りに出会えない虚しさ」も表れるというところが、この組香の「趣向の肝」と言えましょう。
続いて、連衆の答えが返って参りましたら、執筆は各自の解答欄に答えをすべて書き写します。その際、回答と同様にA段とB段の間は少し開けて書き記します。答えを写し終えたら、執筆は香元に正解を請い、香元はこれを受けて、香包を開いて正解を宣言します。執筆はこれを聞き、香の出の欄に要素名を出た順に書き記します。
ここで、この組香は、B段の香の出によって、香の出の下段に下記の通り「漢詩の句」を書き附すこととなっています。
B段の出 | 漢詩の句 | 解説 |
橘 | 盧橘子低山雨量 |
盧橘子低山雨量 栟櫚葉戦水風涼(和漢朗詠集171 白)の一句 【読み】盧橘(ろきつ)子(み)低(た)りて山雨(さんう)量(おも)し/栟櫚(へいりょ)葉(は)戦(そよめ)いて水風(すいふう)涼(すず)し 【意味】夏蜜柑(一説に枇杷とも)のなり下がった実は一層重そうに見え、水の面を吹いてくる風に棕櫚の葉がそよいでとても涼しく感じられる。 ※ 出典は「枝橘子」となっていたものを「盧」に修正 |
柑 | 柑橘花開五月天 |
出典不明 【読み】柑橘(かんきつ)花(はな)開(ひらく)五月(さつき)の天(そら) 【意味】同上 |
枇杷 | 枝繋金鈴春雨後 |
枝繋金鈴春雨後 花薫紫麝凱風程(和漢朗詠集172 後中書王)の一句 【読み】枝(えだ)には金鈴(きんれい)を繋(か)けたり春(はる)の雨(あめ)の後(のち)/花(はな)は紫麝(しじゃく)を薫(くん)ず凱風(がいふう)の程(ほど) 【意味】橘の実は春雨の後、つややかに熟して枝に黄金の鈴をかけたようであり、その花は、南風に咲き匂って、まるで麝香を薫ずるようだ。 |
枳 | 江北枳為江南橘 |
『韓詩外伝』『説苑』『晏子春秋』等の諸書に見える中国の諺。 【読み】江南(こうなん)の橘(たちばな)江北(こうほく)の枳(からたち)と為(なる) 【意味】江南の土地では橘であるものが、江北に植えると枳となる。人は住む場所の環境によって性質が変化することの例え。 ※出典は「枳花」となっていたものを「為」に修正 |
このようにB段で出た要素名が読み込まれている漢詩の一句を香の出の下に書き附します。枇杷の詩については、橘は春に身を付けないので「春雨」が正しければ「枇杷」のこと、「橘」が正しければ「秋雨」の間違いということになります。いずれ、「盧橘」が「枇杷」との説もあり、そのこともあって、要素名で異彩を放っていた「枇杷」は、唯一この季節に実を付けている「盧橘」として登場してきたのかもしれません。
因みに、同名異組では、1つだけ出る「実」が当った場合は「枝繋金鈴春雨後」と回答の下に記され、2つ出る「花」が両方とも当たった場合は「花薫紫麝凱風程」と記され、「葉」は何もなく、全問正解には「さつきまつ・・・」の歌が下附されるようです。
香の出の下段に漢詩を書き記したところで、執筆は香の出を横に見て、各自の答えの正否を定め、当たった要素名に合点を掛けます。点法については、出典に明記されていませんが、「盧橘香之記」の記載例によれば、客香である「橘」の当たりは2点、その他は1点が掛けられています。そうすると、この組香の最高得点は8点となります。また、この組香の下附は、全問正解には「全」、その他は漢数字で書き附します。そして、記録の奥には「さつきまつ・・・」の歌を書き記され、詩と歌が前後に配された趣深い香記が出来上がります。
最後に、勝負は最高得点者のうち、上席の方の勝ちとなります。
昨今は、宴会もなく、「つまもの」に橘の花を添えるなどという粋な店も少なくなりました。皆さんも花咲く生垣に身を寄せて…マスクを外して「昔の人の袖の香」を思い出してみてはいかがでしょうか?
雛祭りには「右近の橘」で毎年見るのに、この辺では見かけないなぁと思っていたら・・・
橘の北限は静岡県沼津の戸田だったのですね。
東北人は柑橘系の庭木が実をつけている景色に豊かさを感じてしまいます。
橘の白き花影香ぞ清し我立ち返える戸田の夕浜(921詠)
組香の解釈は、香席の景色を見渡すための一助に過ぎません。
最も尊重されるものは、皆さん自身が自由に思い浮かべる「心の風景」です。
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