十月の組香

 

みちのくの代表的な歌枕をテーマに景色を味わう組香です。

仙台においでの際は、この組香に出てくる地名を訪ねてみてください。

 

説明

  1. 香木は3種用意します。

  2. 要素名は、「松島」「塩釜」「小舟」です。

  3. 香名と木所は、景色のために書きましたので、季節感や趣旨に合うものを自由に組んでください。

  4. 「松島」「塩釜」はそれぞれ2包作り、そのうち1包ずつを試香(こころみこう)として焚きます。

    ※ 試香とは、「松島でございます。」「塩釜でございます。」とあらかじめ宣言して、香木の印象を連衆に覚えてもらうために廻す香炉です。(メモしても結構です。)

  5. 残った、「松島」1包、「塩釜」1包と「小舟」1包(計3包)を打ち交ぜて、その中から任意に1包を引き去ります。

  6. 本香は、「松島」「塩釜」「小舟」の各1包のうちのどれか2つとなり、2炉廻ります。

  7. 後で答えを出すために、出た順に要素名を書き留めておきます。(メモしても結構です。)

  8. 本香が2炉とも廻り終わったところで、「聞きの名目」を参照して、たとえば、1炉目が「塩釜」、2炉目が「小舟」ならば→答えは「扇谷」(おおぎだに)と1つだけ書きます。

    ※ 出た順番を間違えると答えが変わってしまうので、注意してください。

  9. この組香には、下附も点数もありません。答えの当たりは、赤点(2点)で記されます。
     

 先月の組香で、「白河の関」までおいでいただいたので、今月はいよいよ「松島」までおいでいただきましょう。

 この組香は、今は絶えてしまった香道「米川流」の香組です。米川流は、江戸時代(寛文の頃)、東福門院の信頼の厚かった京都の米川三右衛門常伯の創始した流派です。一時、隆盛を誇り、御家流、志野流とともに「江戸の三流」と並び称せられていましたが、明治維新の文明開化の波によって、次第に衰退してしまいました。季節にはとらわれない組香ですので、四季折々でみちのくの景色を楽しむことを目的に組まれたものと考えられます。

 要素名の「塩釜」は、奥州一ノ宮「塩釜神社」と国府多賀城に隣接するという好立地から、平安時代からのみちのくを代表する歌枕として「東歌」に詠みこまれていました。当時の塩釜という地名は、松島を含めたものだったということです。

 一方、「松島」は、塩釜の登場から約二百年後に和歌に登場(独立)します。この時期に源義経、西行、能因法師らが来訪したとみられていますが、史実ははっきりしません。江戸時代に入って、俳人大淀三千風が「松嶋眺望集」を著したのを発端に、これに親しんだ芭蕉が「松島の月まづ心にかかりて」来訪し「奥の細道」を著すに至り、さらに風流人の松島詣でが増え、現在では、景勝地「日本三景 松島」として有名です。また、香道では、「松島」「塩釜」という名香もあります。

 もうひとつの要素である「小舟」は、おそらく塩釜⇔松島の移動手段として使われているものと思われます。奥の細道によると芭蕉は千賀の浦(塩釜)から舟で松島に向かっています。「乗合い舟で行こうとしたら、同乗してきた坊主たちが生臭だったので、折角の松島が興ざめになると思い、貸切りに乗り換えた」のだそうです。当時から昭和の初期までは、帆掛け舟による島巡りが松島観光の目玉でした。

 3つの要素からから1つを任意に引き去り、本香を2つにするのは、移動の始点と終点という意味合いが強いと思います。それを実証するのが、聞きの名目(ききのみょうもく)です。

「松島」「塩釜」は、現在は宮城県の宮城郡松島町、塩竈市となっています。

「籬島(まがきじま)」は、塩釜・松島湾内めぐりで最初に紹介される史跡名勝の島です。現在は埋め立てが進んでほとんど陸続きとなっています。

「千賀浦(ちがのうら)」は、塩竈港がある松島湾西部の古称です。国府多賀城の港であったとされています。

「八十島(やそしま)」多くの島々のことです。松島には約260の島があると言われます。

「扇谷(おおぎだに)」は、塩釜と松島の間に位置し、松島の四大観の「幽観」が望める地とされています。

「金華山(きんかさん)」は、宮城県牡鹿半島の東側に位置する島で、黄金山神社、野生の鹿の角切りが有名です。

「大高森(おおたかもり)」は、松島湾の東、奥松島の小高い山で、松島の四大観の壮観が望める地とされています。

 以上のように大部分は現存する地名で、塩釜(西)から金華山(東)までを道順どおりに並べると「塩釜」→「千賀浦」→「籬島」→「扇谷」→「松島」→「八十島」→「大高森」→「金華山」という位地関係となります。例えば、「松島」から漕ぎ出した「小舟」は、終点の塩釜近くで「籬島」に着きますし、「塩釜」から「松島」に漕ぎ出せばでは、「千賀浦」が始点となります。また、「塩釜」から「松島」に漕ぎ出せば、「扇谷」が次のビューポイントとなります。このように、移動の間に見える景色や始点・終点の名勝を聞きの名目と符合させているのです。細かい地理上の位地関係まで、組香の情趣として織り込んでしまう作者の力量に本当に驚いてしまいます。

 また、この組香で遊ぶときには「名乗」(なのり)と言って、連衆(各々)にインターネットのハンドルのような「香席での仮りの名」が与えられます。陸奥名所香の名乗は、みちのくの歌枕が使われており、「勿来関」「白河関」「盤手山」「安積沼」「不忘山」「名取川」「壺石碑」「末松山」「野田玉川」「緒絶橋」などが割り当てられます。連衆は、この与えられた仮名で答えをしたため、記録にもその名前が記載されます。すると、聞きの名目などの松島周辺の地名と相俟って、香記全体がみちのく色満載の景色となる訳です。

 普通、「組香での景色」というと、下附や証歌が重要な役割を果たすのですが、これには、それがありません。私なら、それなりの証歌「みちのくはいづくはあれど塩釜の浦こぐ舟の綱手かなしも(古今集・東歌)」「松島や雄島の磯もなりならずただきさかたの秋の夜の月(西行法師)」を付けて、下附もこの季節ならば、当たりは「小春日和」、はずれは「時雨」とでもしたいところですが、華美になりすぎるのもいかがなのものか?と自重しました。

 当たりは、答えの右肩に赤点チェックで示されます。2つを聞き当てた結果の当たりなので2点チェックします。(誰も当たらなかった場合は、1つでも聞き当てた人の優位とします。)

 東北には、歌枕が43箇所あると言われていますが、いかな歌枕とは言え、江戸時代の京都で、どうしてこのような地名を知り得、それを香組に仕立て上げたのか 、とても不思議です。よもや机上だけでの香組ではないと思いますが、もしそうだとしたら、大変な知識と教養が必要だったでしょう。私は、芭蕉が松島では俳句を残さなかった(正確には作るには作ったが、凡作だったので奥の細道に掲載せず、その代わりに美麗な漢詩を掲載しています。)ということが「証歌なし」と符合し、また、名乗に用いられる歌枕が芭蕉の足跡と符合していることから、この組香が「奥の細道」の影響を受けているものと考えています。

 因みに、観光ガイドで有名な「松島の四大観」とは、大高森(東)の「壮観」、富山(北)の「麗観」、扇谷(西)の「幽観」、多聞山(南)の「偉観」と言われており、幕末の儒学者、舟山万年が著した「塩松勝譜」に初めて紹介されたとされています。現在では、地震や波の浸食で島々の変化が著しい松島ですが、当時はどんな奇観をみせていたのでしょうか?

 

みちのく仙台には、遠方から訪れた方々をもてなすいい組香があります。

単純で分かりやすい組香ですが、私も最高の香気でおもてなしたいと思います。

 

組香の解釈は、香席の景色を見渡すための一助に過ぎません。

最も尊重されるものは、皆さん自身が自由に思い浮かべる「心の風景」です。

Special Thanks to 

Mashall

塩竈市市制情報課