「伊達衆と芸能」 見聞録

仙台市博物館館長の濱田直嗣氏による

「伊達衆と芸能」―伊達政宗時代の美意識を中心に―という講演会が催されました。

先生は、「伊達の文化は、政宗に代表されているが、実は、政宗と一緒に生きた伊達衆の総体としての文化であり、相互に学び合った[座]の文化だった。」とおっしゃっていました。

ここでは、先生の講演内容をもとに「伊達政宗の生涯と伊達衆の文化に関わるエピソード」を年譜にしてみました。また、後段では、伊達家所持の名香「柴舟」について、私なりに補足を加えています。

伊達政宗(伊達衆)の文化史

西 暦

事 柄

前史

中世の伊達家は、現在の福島県伊達町、桑折町、梁川町一帯を約200年間治めていた豪族、米沢(山形県)に移り住んで2代目が父輝宗である。

1567

伊達政宗、米沢で誕生。

このとき、既に信長(34)、秀吉(32)、家康(26)。世の天下人と格段の年齢差と地域的・文化的ハンデを背負っての出発である。

1582

織田信長(49)、本能寺で没する。

1584

政宗、家督相続。

1585

政宗を統領とする最初の連歌会を開催する。(七種発句始め)

その後も伊達家末裔に引き継がれる。

1587

米沢城内に数寄屋が落成。茶会を開く。

1588

この頃「当世の茶の湯」の稽古。

いわゆる「闘茶」のようなゲームではなく、片倉小十郎らと「侘び茶」を学んでいた。

後に「この頃は、諸道具も金銀くらべの様になり・・・身代ほどほどの料理もなく、侘者のていたらく云々・・・」と侘び茶の変容を憂うようにもなる。

1590

政宗、小田原の豊臣秀吉の下へ参陣。秀吉、東北へ下向。

1591

2月政宗、初上洛。

将来を担う青年の代表として比較的すんなりと中央の諸大名に受け入れられる。桃山文化と出会い、戦乱の世に特有の刹那的な若者文化に傾倒していった。「かぶく」(異様な身なりをする。人の目につく衣裳を身につける。)という美意識に確信を得る。

9月米沢から岩出山(宮城県)へ移住。

奥州平泉文化を継承する葛西、大崎、国分氏との争いの中から、桃山文化と平泉文化の融合が生まれる。

千利休、自刃。

1592

正月伊達衆、文禄の役に出陣。名護屋(佐賀県鎮西町)へ向かう。

この時の軍装(全員黒具足、紺地に金の日輪の旗差し、金の星を前後に配した母衣など)が見事なので、見物人は貴賎を問わずどよめき、固唾を飲んで見送った。それが、京中で大いに誉めそやされた。

これが、「伊達(date)と言い習わされ、現在の「伊達男」や「伊達者」等の語源となっている。

1593

文禄の役のため朝鮮に渡る。

1594

政宗、吉野の花見に随行し、歌会に出席。

五首の歌を詠み、あまりに出来栄えが良かったので文人としても一目置かれる。

1598

豊臣秀吉(63)没する。

1600

関ヶ原の戦い。政宗は白石、福島で戦う。

仙台城の縄張り(基本設計)を行う。

1601

仙台に城と城下町造りが始まる。

旧伊達五山をはじめとする主要寺院の造営開始。

岩出山から仙台へ移住を始める

1604

松島五大堂を造営する。

9月には大崎八幡神社の造営に着手する。

(大工:梅村家、刑部国次、絵師:狩野左京)

1605

松島瑞巌寺の造営に着手。4年後に落成 。

1607

大崎八幡神社落成。

塩竃神社、陸奥国分寺薬師堂完成。

1610

仙台城本丸大広間が落成。(大工:梅村家、刑部国次、絵師:狩野左京)

聚楽第を模にした公式行事用の広間を城内の中心に置き、能舞台や西の丸(文化ホール)等、文化の殿堂としての色濃い設計だった。

伊達文化の開花は、この時代だとされている。

政宗、徳川家康より大名物「山井肩衝茶入」を拝領する。

1613

支倉常長らを欧州に派遣する。

1615

大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡する。

支倉常長、ローマ法王に政宗の親書を呈する。

1616

徳川家康(75)が没する。

江戸文化が仙台にも浸透し、次第に「伊達衆」文化から「仙台衆」という没個性型の文化に変容していく。

1622

瑞巌寺の障壁画が完成する。

(絵師:狩野左京、長谷川等胤、吉備幸益、九郎太)

1626

政宗、上洛中に細川利忠より「柴舟」の香木を入手。

贈呈、拝領ではなく、金を払って分けてもらっている。

息子忠宗に対して、「約束していた伽羅を買って送った。大変貴重なものなので、みだりに他人に譲らないように。名前は柴舟と付けた。兼平の謡に[憂きを身に積む柴舟の焚かぬさきより焦がるらん、焚かぬ前より匂う]と言うところから思い付いた。名前の耳触りは良くないけれども・・・よろしく。」と手紙を出している。

1628

政宗の隠居所仙台若林城が完成。

晩年政宗は、「戦場で青春期を過ごし、泰平で気が付くと白髪となっていた。丈夫な身体は天が与えてくれている。楽しまなくては・・・40年前の青年の頃は、功名も覇権も狙ったことがある。老いが来て戦いを忘れ、ただ春風を抱いて盃を挙げている。」という漢詩を残している。

1634

香の同人であった近衛信尋から、「いつでもいいから、酒を飲みながら香の品定めをしよう。・・・・・・他人には、太子堂という伽羅をくれてやり、柴舟は、秘蔵にしなさい。でも、僕たちには、もう少しくれても苦しゅうないぞよ。(爆笑)」という手紙をもらっている。

1635

正月政宗が江戸城内で将軍家光餐応の茶会を催す。

このとき、将軍家を迎えた時の衣装(浅葱地金紋の緞子り小袖、背に大きな唐団扇等)も相当派手だった。

柴舟を家光に贈呈し、「柴舟の香お送りいただいて、とても希に秀でたものだと思いました。万事念入りに心遣いいただいてありがとうございました。」との礼状をもらっている。

1636

政宗、70年の生涯を終える。

※ 漢詩、古文書に関しては、私なりに意訳しています。上記内容の掲載については、先生の許諾を得ています。

柴舟

伊達家所持の「柴舟」は、現在、愛媛県宇和島市の(財)宇和島伊達文化保存会に所蔵されており、度々、宇和島市立伊達博物館に展示されています。

私は、これを仙台市博物館で見たことがありますが、木筋のはっきりした香木でした。

「柴舟」という香木を聞いたことは、過去2回あります。

1度目は、師匠と一緒に聞きました。本当に馬尾蚊足(ばびぶんそく)でしたが、本当に底の深い香りで、「香りがする」というよりは、「雰囲気に包まれる」ようでした。(名香を聞いた時の記憶は、たった三息なのに一生消えないから不思議です。)

2度目は、鑑賞香で聞きました。銘が「しば舟」とひらがななので、「どうなんでしょうか・・・」とおっしゃって出香されたものです。これは、上品な古伽羅という感じで、以前のような強烈な印象は受けませんでしたが、それでも相当な幸運です。

先日、宇和島に行く機会に恵まれ、見事、再会を果たしました。「展示はしていないだろうから、一か罰か学芸員に交渉して見せてもらえれば・・・」と伺ったところ、折りよく「雅の文化−香の美−」という常設展で展示中でした。柴舟は、銀製の薄い箱の中に収まったまま展示されており、一木四銘の兄弟である「白菊」「初音」も香包から出した状態で並んでいました。

柴舟のスケッチ

柴舟と香箱の図

概観

縦5cm、横4cm、厚さ9mm程度の箱型の柾目板で、上部左角から1cm×2cm程度の大きさで切り取られた跡があります。

真横からみると底辺の厚みは中央部で盛り上がっているのがわかります。そして一番盛り上がった部分の表面は、他の部分よりも色が濃くみえます。

木筋は、全体に茶褐色で黒い筋がはっきりときれいに揃って通っており、非常に素性もよい香木とということが、一目でわかります。油気もほんのりと感じられ、いかにも上品に香りがたちそうです。

観客も少なく、静かな環境でスケッチしたり、メモしたりと1時間ほどマイペースでじっくりみせていただき、本当に最高の時間を過ごしました。

おまけ

伊達政宗が寛永三年(1626)に長男の伊達忠宗(宇和島藩主)宛に送った「柴舟の送付状」の口語訳をご紹介しましょう。当時、手に入れたばかりの柴舟に対する政宗の思いが良く現れています。

君の所で約束していた伽羅を送ったよ。

こんないいものは珍しいよ。

だから、惜しげもなく他人に譲っちゃいけないよ。

名前は「柴舟」と付けました。

兼平の謡曲に「うきを身に積む柴舟のたかぬさきよりこがるらん」焚く前から匂って来るほど、香りの強いという意味だ。

名前の語感はイマイチ良くないけどね。

(以下略)

極月朔日  政宗

 

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