一木四銘の謎

 

皆さんは、「一木四銘」(いちぼくしめい)という言葉をご存知でしょうか?

「銘」とは、原産地から渡来した香木を初めて所持した人が自分のアイデンティティを香木に残すために付ける名前のことです

つまり、一木四銘とは、一木で四つの違った名前を持つ伽羅の香木のことで、その銘は「初音」「白菊」「柴舟」「蘭」とされています。

証歌

「初音」(はつね)

きくたびにめづらしければほととぎす

いつも初音の心地こそすれ

「白菊」(しらぎく)

たぐひありと誰かはいはん末匂う

秋よりのちの白菊の花

「柴舟」(しばふね)

世のわざのうきを身につむ柴舟は<

たかぬさきよりこがれゆくらん

「蘭」(ふじばかま)

ふじ袴ならぶ匂ひもなかりけり

花は千種の色まされども

それぞれ香りの素晴らしさ、木の素性の良さは、正に「極品」に値すると言われていますが、そこには四つの銘を持つに至った謎に包まれた逸話があり、これが香木自体の質と相俟って、より一層ネームバリューを高めています。

しかし、その逸話は風聞・異説も多く、実際に命名の経緯や由来を確定することは困難を極めます。

そこで、ここでは皆さんが「一木四銘の謎」に踏み込む一つの端緒として「興津弥五右衛門の遺書」を口語訳ダイジャストでご紹介します。

 

興津弥五右衛門の遺書

この小説は、森鴎外が明治天皇大葬の日に乃木大将夫妻が殉死したことを端緒に書き綴った彼の初めての歴史小説で、大正元年10月に「中央公論」発表されました。

森鴎外は、江戸時代の書物「翁草」に著わされていた興津弥五右衛門の物語を基に、「殉死」に対して欣然として赴く人間を描いていおり、その記述中に一木の伽羅にまつわる細川・伊達の争奪の経緯を垣間見せています。また、弥五右衛門と殺された横田とのやり取りの中に芸道に対する示唆も含まれているような気がします。

あらすじ

細川三斎(ガラシャの夫)は、大変風雅に通じた人で、長崎に異国船が入港するのを聞くと、家臣を派遣して異国の沈品を買い求めさせていました。

寛永元年(1624)5月にベトナムの船が長崎に到着したとき、三斎公は、茶事に使う珍しい品を買い求めたいと、家臣の興津弥五右衛門に同僚の横田清兵衛を付けて長崎に買い物に行かせました。すると、幸運なことに非常に秀でた伽羅の大木が渡来していました。それは、本木(もとき)と末木(うらき)の部分に別れていました。

同じ頃、仙台の伊達政宗のところからも唐物を買い整えようと役人が来ており、その伽羅の元木の方を競り合って、細川方と値段を吊り上げました。

その時横田は、「たとえ主命であっても香木は単なる翫物(慰み物)にすぎない。そんなものに不相応な大金を投げ打つのはやめて、伊達家に本木を譲り、末木の方を持ち帰っても良いんじゃないか?」と言いました。

しかし、弥五右衛門は、「主人は、『珍しいもの』を買って来いと言われた。今回渡来の品で第一の珍物はあの伽羅であって、それに本・末があれば、本木が最も優れているのは当たり前だ。それを手に入れてこそ、主命を果たすことになる。伊達家を増長させ、本木を譲ったのでは、細川家の名を汚すことになるので絶対にできない。」と言いました。

すると、横田は嘲笑って「それは、力こぶの入れ処ところが違うよ。一国一城を争うなら、飽くまで伊達家に楯突いてもいいだろうが、たかが四畳半の炉にくべる木の切れっぱしじゃないか。大金を捨てるとも知らずに、仮に主君自身が競り合ったとしても諌めるべき事柄だ。主君がどうしても本木が欲しいという思いをそこまでして遂げさせることは、(おもねりへつらう)おべっか野郎のすることだ。」と言いました。

当時31歳だった弥五右衛門は、この言葉を聞いて腹が立つのを押しこらえて「それは、いかにも賢人らしい言い方だね。しかし、私は主人の命令というものが大切だから、主君が『あの城を落とせ』と言えば鉄壁でも乗っ取り、『あの首を取れ』と言えば鬼神であろうとも討ち果たし、『珍しいものを買って来い』と言われれば、最高の名物を買っていくつもりだ。主人の命令だったら、人倫の道に反すること以外は批判がましいことは無用だ。」と言いました。

横田はいよいよ嘲り笑って「ほら、おまえだって道に反することはしないといったじゃないか。武具ならば大金を使っても惜しくはない。香木に不相応な金を出そうとしているのは、若輩の心得違いだ。」と言いました。

弥五右衛門は「私とて武具と香木の違いは分かる。この前いらっしゃった蒲生公も武具より茶道具を見に来たじゃないか。茶事を無用の虚礼といってしまえば、国家の大礼も先祖の祭祀もすべて虚礼になってしまう。我々が今回命を受けたのは、茶事の御役に立つ『珍しいもの』を買う以外には無い。これが主命とあれば、命に代えても果たさなくてはならない。おまえが、香木に大金を出すことが不相応と判断すのは芸道の心が分からないから一徹にそう思うのだ。」と言いました。

横田は聞き終わるか終わらないうちに「いかにも私は茶事の心得などない一徹の武辺者だ。諸芸に堪能なおまえの芸というものが見たいものだ。」というや否や、すっと立ち上がり脇差しを抜いて投げつけました。

弥五右衛門は、身をかわして避け、掛けてあった刀を取り抜き、一打に横田を斬り殺してしまいました。

弥五右衛門は、その後、首尾良く元木を手に入れて仲津へ帰り、伊達家はしょうがなく末木を仙台に持ち帰りました。

国元に帰った弥五右衛門は、「主命とは言え、本来御主人のお役に立つべき侍を一人殺してしまいました。切腹を申しつけてください。」と頼みます。

しかし、三斎は、「おまえの言うことは一々もっともだ。たとえ香木が貴い物でなくとも、私が買ってこいといった珍品に違いないのだから大切だと思うのは当然である。すべて功利の念をもって物を見たならば世の中に尊いものなどなくなってしまう。ましてや、おまえの持ち帰った伽羅は試してみると希代の名木であったので、古歌に因んで銘を「初音」とつけた。天晴れ!!」といって、わざわざ死んだ横田の遺児を呼んで酒杯を交わし、遺恨を残さないように誓言を交わすよう取り成しました。

寛永三年(1626)9月に二条城へ主上(後水尾天皇?)の行幸があり、その際、件の名香が所望され、三斎は献上しました。この名木には天皇も感銘を受け、古歌に因んで「白菊」と名づけました。

一方、末木を持ち帰った伊達家では、「柴舟」と銘をつけ珍蔵したということです。

その後、弥五右衛門は、香木の功によって二代の君主に引き立てられ無事に奉公を勤め上げました。そして、三斎の一周忌の日に大徳寺清巌和尚の引導によって「晴れがましく」殉死します。

風聞・異説

「翁草」や「興津弥五右衛門の遺書」で登場する伽羅の銘は「初音」「白菊」「柴舟」の「一木三銘」になっています。古文書でも「一木三銘」となっているものもあり、現在でも、残る「蘭」の記録が少なく、その出所が謎に包まれてしまいます。

香人の中では、「実は寛永元年の争奪戦には、加賀の前田藩からも来ており、横田が殺された後、細川、前田、伊達の三者で香木を一緒に買い取り、勅銘をもらうための部分を切り取った後の香木を三等分して、部位の上中下はくじ引きをした。」という説もあります。

この説に則れば、勅銘部分が宮中所持の「蘭」、最上部が前田家所持の「初音」、中段が細川家所持の「白菊」、下段が伊達家所持の「柴舟」ということになり、一木四銘となった辻褄は合ってきます。これには、下段の伽羅を引き当てた伊達家の家臣は、「申し訳なし」として自刃したという風聞もあります。

また、「初音」は小堀遠州が所持していたという説もあり、志野流の伝書『初音白菊柴舟三事』にもその記載があります。ここでは、「初音」「白菊」とも御水尾天皇が勅銘したことになっており、それぞれ「小堀(初音)」「細川(白菊)」が所持していることになっています。

さらに、伊達家の家伝書『治家記録』には、「柴舟」について「寛永三年九月、伊達政宗が上洛の際、細川越中守忠利(三斎の息子)から金を出して譲ってもらった。」という古文書もあります。

結び

以上のように、「一木四銘の謎」は伝承によるところが多く、核心に迫ることは容易ではありません。いずれ「極品の伽羅」であることは一目瞭然ですし、更に香気に至っては「正に天下に比類無し」とされています。香木の由緒を詮索するよりも、むしろこれらの伽羅の質そのものに畏敬の念を抱いて精進すればいいのではないかと思います。

もちろん「駄木」であっても天然香木は貴重な資源であり、このような香木を作り上げた「自然」そのものへの畏敬の念も忘れてはなりませんね。

 

追補

「柴舟」の命名のの由来についは、寛永3年12月1日付けで宇和島藩主となっていた息子の伊達忠宗に分木した際の手紙に真実が記載されています。

追って申し候。そこもとにて約束申し候伽羅、遣わし申し候。

かようのは稀にて候。心よくはむざに人に遣わしまじく候。

名は「柴舟」と付け申し候。

「兼平」の謡いに「うきを身に摘む柴舟の、たかぬさきよりこがるらん。」焚かぬ先より匂うと云う心にて候。

呼び声は良くなく候えども。  恐々謹言

このように、「生木のうちから香るような強い香気」を持った伽羅だったため、政宗は謡曲「兼平」の一節から「柴舟」の名を採ったと息子に伝えています。また、「呼び声(語感)」については、少々不満もあったと記されているのも興味深いすね。

 

 

一木四銘の謎については、各界からの情報を募集します。

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