翫香

重文:金銅柄香炉の図(藤田美術館蔵)

「がんこう」この言葉の意味はいったい何でしょうか?

これは、人間が楽しみのために香を焚くこと。「香をもてあそぶ」ことを言います。

香は仏教における焼香、神道における献香等、洋の東西を問わず様々な宗教で礼拝や儀礼に用いられていました。

それは、死者に対する功徳として、また、神に対する捧げものとしての意味を持っていました。無量壽経に「香を聞くをもって佛食と為す」とあるように、元来、「香は神仏の食べ物」だったと言えます。

この神の食物なる植物の断片を人間が楽しみのために焚き、「文学に根差した当てものゲーム」にして芸道の域にまで昇華させてしまうというのは、日本独自の文化であり、美意識であると言っていいでしょう。

金銅蓮台形香炉

香木の伝来

もともと日本には無い植物である香木が日本に伝来したのは、いったいいつ頃のことでしょうか?

仏教の伝来が、宣化天皇三年(538)なので、このときに仏教と切っても切れないアイテムである香木が伝来している可能性は高いのですが…

「香木の伝来」の記述は、日本書紀の推古天皇三年(595)「夏、淡路島へ一抱えもある沈香が流れ着いた。島民が薪として竈で焚いたら、その煙が遠くまで良い香りを運んだ。島民は、これは不思議だと言って、宮廷に奉った。」とあり、これが香道界の通説となっています。

この香木を聖徳太子が「南天の佛国に生ずる栴檀香と極め、この木で観世音菩薩を彫らせて、法隆寺の夢殿納めた。その余材のうち極品を手箱に保管して、仏前で焚いて供養していた。」・・・これが、日本最古の名香「太子」(別名:法隆寺)であるとの伝説も伝えられています。

香の遍歴

奈良時代

この頃の香木は、たいへん貴重な宝物であり、権威の象徴として主に朝廷の所蔵となりました。

朝廷や仏教界は、香を焚くと日常生活からあたかも別世界へ迷い込んだような清浄感、荘厳感が得られることから、儀式の演出に使っていました。

当時は、香の使われ方も仏前に供える「供香(そなえこう)」、儀式や盟約の場を清める「空香(くうこう)」、薬として所持保管する「香薬」に限定されていました。

重文:聖徳太子孝養像の図(部分)(三重四天王寺蔵)

聖徳太子と柄香炉

かの有名な黄熟香「蘭奢侍(らんじゃたい)」(別名、東大寺)は、東大寺建立の頃(734)に収蔵されています。また、これから、約20年程後(752)に全浅香「紅塵(こうじん)」が国家珍宝帳に追記されています。

鑑真和尚が来朝の際(754)、所持していた香料や香薬の製法を伝えたことにより、「薫物(たきもの)」は朝廷や仏教の中で盛んに使われるようになっていきます。このことが、次代の香の文化に劇的な変化を与えていきます。

平安時代

時代が中世に至って、香木の希少性は前代と変わらなかったものの、香料を混ぜて「薫物」として使うことにより衣服や装身具、日用品や家具に至るまで香を焚き込める風習が貴族社会の中で生まれ始めます。この頃から香木は、丁子(インドネシア産:フトモモ科の木の蕾)、麝香(チベット産:ジャコウジカの雄の性線)、乳香(エジプト産:ボスウェリア属の木の樹脂)、甲香(モザンビーク産:巻貝の貝殻)、龍脳(ボルネオ産:龍脳木の内部結晶)等とともに「練香(ねりこう)」としての文化を築き始めます。

これが神から香を引きずりおろして人間のものとした、翫香のはじまりです。

貴族の中でも、香りは自らのアイデンティティとしての意味を持ち始め、特徴のある香りを調合する秘法も大切な教養の証となりました。

当時殿上人の間で流行した「薫物合わせ」は、このような自作の練香の出来栄えを競うもので、江戸時代まで伝承されています。

代表的な練香である中国伝来の「六種の薫物(むくさのたね)」は、現在でも季節や祝儀等、時宜に応じて焚かれ、昔ながらのレシピで香舗に陳列されています。

源氏物語画帖 梅枝の図(部分)(徳川美術館蔵)

薫物合わせをする光源氏

六種の薫物

名称

香印象

時節

梅花(ばいか)

梅の花の香り

荷葉(かよう)

蓮の花の香り

侍従(じじゅう)

なまめかしい

菊花(きっか)

身に沁みる

落葉(らくよう)

もののあわれ

黒方(くろぼう)

深く懐かしい

鎌倉時代

時代が武家社会になると、権力者の嗜好にも変化がみられ、香の楽しみ方も「濃厚から枯淡」へと移ります。この頃から、沈香一木を賞味する気風が現れ、「一木聞き(いちぼくぎき)」という嗜み方が一般化します。

また、貿易の隆盛によって明から香木が流入するようになり、国内での流通量が増大しました。権力者は、金に飽かして香木を蒐集し、彼らは、自分の所持する香を較べる「香合(こうあわせ)」などを盛んに行っています。このころ、いわゆる「婆沙羅大名(ばさらだいみょう)」も出現しています。

大原野の花見で一斤もの沈香を焚き上げたことで有名な婆沙羅大名、佐々木道誉は、177種の名香の蒐集者としての功績もあり、彼のコレクションは、後に足利義政に継承されたといいます。

「建武記」(1335) に掲載された『二条河原の落書』は、現在の京都市中京区二条大橋付近に掲げられたとされる政治や社会などを批判した落書ですが、「このごろ都に流行るもの」の一つとして「茶香十*柱の寄合(ちゃこうじゅっちゅうのよりあい) 鎌倉釣りにありしかど 都はいとど倍増すという記述があります。これが、当てものゲームの始まりで、十種の茶と十*柱の香を「聞き当てる」という寄合芸能が広まっていたことを示しています。十*柱香は、香席成立の礎となっており、後述するすべての組香は、十*柱香の変化と言っても過言ではありません。

14世紀末から16世紀はじめ

多くの公家や高僧が各々持ちよった懸賞品を競う「懸物(かけもの)」として茶香寄合が隆盛を誇ります。これは、酒宴を伴い、昼夜を分かたず、何百*柱という香を聞く(十*柱香を何十回も繰り返す)所謂「徹夜麻雀」のようなものでした。

この頃から一時、翫香文化も「勝負ごと」としての堕落を始め、時に「沈麝艶色を嗜むこと禁ぜられるべき由、仰せ出さる。」(陰凉軒日録)と禁令が出たこともあったようです。

香道の始祖である三條西実隆(さんじょうにしさねたか)は、御所や御内裏で「御香所預」や「鼻孔指南」を行っていたとの記述があり、名香合や薫物合とともにこのような香宴の指導的立場にあったことを示しています。

足利義政は、当時最高の文化人である志野宗信に懸物を伴う遊戯的な色彩の濃かった「香合わせ」を文学的な美意識に裏付けられた「香道」に変貌させる基礎を築くよう要請しました。

 

重文:三條西実隆像の図(部分)(二尊院蔵)

三條西実隆

志野宗信は、宗祇、牡丹花肖柏、村田珠光らとともに香道の式法を創案し実隆に相談したようです。一方、実隆は、志野宗信らが定めた式法を精査して薫物合の式法等を加え、義政に奏上したと言われています。

実隆が流派を問わずに「香祖」とされているのは、このような香道創生に関わった香人グループの中で「スーパーバイザー的役割」を担ったからではないかと思われます。

桃山時代

東山文化の教養を受け継ぐ文化人たちが「雅の文化」としての香道を創出し、文学的な主題と香木の情趣を結び付けた「組香」が発生します。高度に磨き上げられた美意識と古典文学の素養を必要とする香道は、その時々の生っ粋の文化人たちによって綿々と受け継がれて行きます。

江戸時代

徳川家康をはじめ、細川、伊達と名だたる名将が、香人として香木の蒐集に努め、各大名家は御家の名を所持するようになります。また、貴族から町人に至るまで、盛んに「香をもてあそぶ」という時代となり、それまでは数寄者の遊芸であった香の世界に筋目正しい家芸の伝統を担った人の中から「職業香道人」というものが現われて来ます。古法や正統を主張する宗匠によって、香道具や作法が完成の域に達し、その集大成として多数の伝書が刊行されて香道は隆盛を誇ります。

志野流はこの頃に家元制度を確立し、後に武士や町人も含め最大の隆盛期を迎えます。当時の門人帳には、北は青森県(弘前)から南は長崎県(平戸)まで、士農工商を問わず門人の分布が見られます。

一方、御家流は、11代宗家の猿島帯刀の時代になり、初めて殿上から地下人(じげびと)の世界に広まります。この頃、「御家流」という名前は、公家の世界で言われていた「家伝の流儀」という意味が転じて、発生したのではないかと言われています。

明治時代以降

文明開化の煽りを受けて、古い日本の芸遊である香道も顧みられなくなります。江戸時代までに存在した米川流、相阿弥流、園流、建部流、風早流等は廃れ、御家流と志野流がかろうじて伝承されました。

三條西家は、「当流」と呼んで、この文化を完全相伝で後世に受け継いでいましたが、昭和22年に、御家流皆伝を受けた宗匠らの薦めで、三條西公正(尭山)氏が宗家となり、宗匠制度を確立しました。

御家流は、公家の「遊び」として長年宮中で楽しまれて来たことから、「雅でたおやか」であり、何よりも和気藹々とした香気三昧の雰囲気を大切にしています。 一方、志野流は、武家社会や後世の町人社会で培われ、「芸道」として継承・流布されて来たことから「侘で厳格」であり、香木という自然の産物に対する畏敬の念や「型」の完成を通して心の鍛練をすること目的としていると言えるでしょう。

その他、現在の日本では、安藤家御家流、泉山御流、直心流、翠風流、閑院流等の流派もあります。また、香の研究会として御家流桂雪会、御家流霞翠会、御家流柿園会等も純粋に古法を守っています。インターネットを始めてからは、御家流霽月会、御家流霞月派、古心流、御薗御流、教林坊流花庵流などがあることも知らされましたし、好事家が定期的に集まり、香席を楽しんでいるサークルも随分あることがわかりました。

香道は、「香りと文学を精神的支柱にした組香によって、伝来の遊芸に興じ、各自の心象風景を創造するという」抽象的な共通目的をもっていると思います。ただ、そこに到達する過程や手法が少しずつ異なり、諸派を形成しているのではないでしょうか。

 

これから、皆さんをその風雅な世界に誘って参りたいと存じます。

「チョット小難しく」なりがちですが、よろしくお付き合い願いま〜す。

 

* 文中の「*柱」の字は、本来「火へん」に「主」と書きますが、フォントが無いので、一番形の近い当て字にしました。文中の「焚く」も本当は、この字に「く」をおくるのが、香道では一般語です。

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