香道筆始(全)(こうどうふではじめ)

北斗庵小野淳翁著 文化九年(1812) 1冊 写本

明治三十二年 細谷松男校

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自序

今や香道の式、入り乱れてすれたなむ事の侍れば、「正竒」(せいき→正しいこと怪しいこと)のふたつを伝えて正すは式法と定む。

「奇」は、聞きになぞらえ、香すける人のそのふたつを捨て、その礼を忘れ、彼是(かれこれ)とあたりぬるを上手めかしきとてはやされ、この道をえたり顔なるもうるさき仕業なりけらし。

それ、香道は「正式第一」として好めば楽(いよいよ)深し

また、専ら勝負を好める友がら、いかでこの道の本位ならん。

これを好める人、まねて楽(たのしが)るというにあらじとて、ここに我友なりける(伊与田)勝由・辰芳の両雅子は、「楽只亭(らくしてい)」の左右にして、この道の達人なり。

しかあれば、今の世をもてはやす所の「香会法式」正しからず。

聞きのみ専一として、法度衰えなむ事をなげき、ここに古の正法を正し、「楽只亭」の掟書に本つづる。

初心の輩、うけとり安き式を定め、導門に入る人々、旦暮(たんぼ→あけくれ)「翫香の楽」をせんとならば、「式」と「聞」とを合躰して、順々に書を熟読すべし。

あながし「風雅の真」を忘る事なかれ。

「式」と「聞」らは末に述ぶる。よみて知るべし。

 

文化九壬甲 年如月

東都比揚屋街

  三代目  北斗庵淳翁

 

《内容》

一 香道とい うは、伽羅を総て知るばかりを「香道成就の人」と云うはあらず 。

先ず、一通りの要とする所をいえぱ、朝夕に香炉を手馴れて火加減を知り、名香に心を掛けて、伽羅、羅国、寸聞多羅、真那蛮、真那()の五味を分け知りて、先師達の云い置かれし聞きに引きて逢うか違うかを試みるを一つの稽古とし、さて、一座の香書院、違棚、押板、香棚、黒棚、三厨子飾り、茶所飾付け、卓、長盆、四方盆、香炉飾り、夫々の飾り方有り。掛けものの軸先・軸本置き方、五つ飾り、佛神供香、空焚の飾付け、また、焚香となりては客に成り、亭主になり、夫々の挨拶有り。

名香はさらなり。さなき(そうではない)香にも相応の挨拶あることなり。つづめて云う時は、書院飾りより、香の茶の湯にいたるまで、理の廣きなり。短紙に書わけし難し。奥義にいたりては、「心を以って心に伝う」と云うも栴檀、沈外の伝、法隆寺、東大寺の父母より起こり深き意味有り。効ひ(ならい)うけて知るべし。

一 組香を日夜翫びて数の多き 「巧者」「上手」と極め 、我も悟りて自慢のみにして、五組、六組も聞くを手柄と思ふと見えたり。

かかる人をば「香道好める」といふべからず。

是を「伽羅数奇」と申すべし。 ・・・ (下略)

一 当流は、式を正しくして、初学の人分け入ることかたきに似たれども類書、香炉を友として楽しめば、自然と安らかに覚ゆるなり。

今の世、香をもてはやす人、鼻をのみ重宝がりて稽古にはならず。・・・ (下略)

一 茶と香は世に並びて云う 「車の両輪」のごとしといへども、香道は「御香所」有りて和歌と同じ。香は書院飾る。

茶は、台子飾はるか次の間なり。・・・ (下略)

一 中りを好む人々は鬮(くじ)を取り、座を極むという。

是非に中りを争う故なるべし。・・・(下略)

一 記録認めようは、いく度も和らに草書に認むべし。

また、香組の「一」「二」「三」「ウ」を行下がりに書き、香銘もそれに応じ行下がりに認め、風流と心得るべし。・・・(下略)

 洛の清水記林(しみずのりき)は、若き時、十二屋助之進 (常白→米川一秀を学ぶ。

山本宗(御家流米川九世)も同じ門人なりしが、霍庵(一秀)死後、宗謙の門に入るにより筇叟へ香道所望の人有りと云えども、終に許さず、宗に譲るよし、原甫教(はらよしのり)が書き残し置かざれば、ここに出ず。・・・(下略)

一 焚香は、聖徳太子、淡路の国へ流れよる沈香を取上げたまいて、仏へ一木の沈香を供香したまう。

それより一木の香を焚き始むなり。・・・(中略)

・・・これ雲上方のもて遊びなり。

しばしば地下にくだりて、今、風雅とはいえども法式正しく香を焚きて神を祭り、仏に供養し奉る事を常々心に熟らるべし。

これ本元を知らしむるなり。

 

文化壬申二月   三代目

       北斗庵淳翁撰

 

後序

それ香道の源は大門に行われ、諸々の木南に勅命有り、陰陽を分かち給ひ、三の法式を定め、御香所、初めて木所の気味を噛み分けしより、日の本の一芸を成し畢ぬ。・・・(中略)

・・・深志の輩、御家の門に入りて切磋の功を積みて香道の冥加をかえし、修業に 疎略の無き人々は奥義に進む事、速なるべし。

 

文化九壬申中春   東都郭内 眩枕

源朝臣伊豫田勝由  誌之 花押

 

香道筆始跋

それ香道世に伝ふる事、その源遠く代々に施す。薫りにて翫ぶ人多く、「御家流儀」と云う。

志野、米川、蜂谷、その流々の 規矩を分かつと云えども、いにしえの志野氏すら御家の御流儀にあらずと云う事あるべからず。・・・(中略)

・・・我師のむしろ開き給う事に、畢りに悟したまうも、この 文にことなることなしとて、この書をもて、師の門に入る人々にしめして、法をただしくせんと、これをこうて、その荒ましを後ろべに跋す。

余の門に遊ぶ人々はその師のおしえに随うべし。

 

文化九壬申季如月

江城東村松町のやどに草をとる

流芳庵主 芦翠 花押

後法躰宗芳政

 

 

※ このコラムではフォントがないため「」を「柱」と表記しています。

 

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