十月の組香
西行と能因の奥州歌枕の旅をテーマにした組香です。
二手に分かれての聞き比べや四つの証歌が特徴です。
※ 年に1度の初心者用解説付きバージョンです。
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説明 |
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香木は6種用意します。
要素名
※「要素名」とは、組香の景色を構成する名前で、この組香をはじめ大抵の組香ではこれを答えとして書き記します。
香名
※「香名」とは、香木そのものにつけられた固有名詞で、要素名とは区別されます。組香の景色をつくるために、香木の名前もそれに因んだものを使うことが多く、香人の美意識の現われやすい所です。
※「木所」とは、7種類に分かれた香木の大まかな分類です。(香木のコラム参照)
「道野辺」「宮城野」「白河関」「武隈」はそれぞれ3包作り、「柳萩」「松秋風」はそれぞれ2包作ります。
連衆は、西行方(さいぎょうがた)、能因方(のういんがた)の2グループに別れます。
※このように連衆をグループに分けて勝ち負けを競うやり方は、盤物(ばんもの)と呼ばれるゲーム性の強い組香ではよく使われます。
「道野辺」「宮城野」「白河関」「武隈」のうち1包ずつを試香(こころみこう)として焚き出します。さらに西行方には「柳萩」1包を能因方には「松秋風」1包を試香として焚き出します。
※「試香」とは、香木の印象を連衆に覚えてもらうために「柞でございます。」「檀でございます。」とあらかじめ宣言して廻すお香です。
この時点で、西行方にとっては「松秋風」が、能因方にとっては「柳萩」が客香(きゃくこう)となります。
※「客香」とは、「試香」が無く本香で始めて聞くお香のことで、古くは客が持参したお香のことを表していました。
ここで、西行方は「道野辺」「宮城野」「柳萩」、能因方は「白河関」「武隈」「松秋風」を自分の持ち香とします。
※「持ち香」とは、自分のグループの香という意味で、古くは自分で持参したお香のことを表していました。
※「打ち交ぜ」とは、シャッフルのことで、香包を順序不同に混ぜ合わせることです。
※「本香」とは、当ててもらうために匿名で焚くお香です。連衆は、このお香と試香の異同を判別して、答えを導きます。
※「下附」とは、組香の景色に彩りを添えるために、点数に代わって付けられる成績を表す言葉です。
※「皆」とは、全問正解のことです。
澄んだ秋空に紅葉のコントラストが美しい季節となりました。
毎年、深山の錦が深い色を呈する頃になりますと、「みちのく」の自慢がしたくなります。この時期は、豊かに実った農作物の収穫を終える頃で、鄙びた山村の農家にも安堵と活気と誇りが満ち溢れます。収穫祭でもある秋の例大祭は、山河の彩りに花を添えますし、骨休めの湯治場でも1年の労働の汗を流す人々に豊富な山の幸が振舞われます。旧暦からすれば、初冬を迎えるわけですから、冬の厳しさを思うと決して心弾む時期ではありませんが、「みちのく」は短い夏に燃え、暮れ行く秋に一冬分の幸せを貯えて置くようです。
いにしえの都人は、そんな「蝦夷地」から得られた少ない情報を元に歌の名所をつくり、それを机上で詠み込んでは仮想旅行をしていました。当時の歌枕(特に奥州歌枕)は、中国の伝説の蓬莱山と同じ「遠方の憧れの地」であったのだろうと思います。そんな「実在がないかもしれない」憧れの地に実際に旅立ったのが、能因法師です。今月は「みちのく香」をご紹介いたしましょう。
まず、この組香は、西行と能因の二人の道行きをテーマにしています。第1の特徴は、証歌が4つもあるということです。ここでは、西行と能因の詠んだ歌からそれぞれ2つずつ、西行作@「道野辺に・・・」、A「あはれいかに・・・」、能因作B「都をば・・・」、C「武隈の・・・」の陸奥の歌枕を詠んだ4つの歌から組香の要素を抽出しています。少なくともABCの歌は『歌枕名寄』等、他の歌集にも度々掲載のある歌であり、詠まれた場所についてもはっきりしています。特にBは、「白河香」の証歌ともなっている能因の代表作で、「みちのく」と言えば、初めにこれをイメージする方も多いかと思います。ただし、@については、現在の栃木県那須町の芦野(関東圏)にある「遊行柳」(ゆぎょうやなぎ)で詠まれた歌ということです。この点、昔の「奥州歌枕」は下野(しもつけ)の国を始点としていたという説もあり、現在の「奥州(東北地方)」とは違う範疇で、組香の舞台が形成されていることは留意すべき点だと思います。
なお、出典に掲載した歌は、いろいろいな歌集に掲載されていますが、表記や時代性を統一するために西行は続古今和歌集、能因は続拾遺和歌集から引用し、要素名に対応した部分のみ漢字表記に書き改めました。
一般に組香の証歌は1つであり、1つの歌からイメージされる景色の広がりをお香で表現するものですが、何故4つの証歌が必要とされたのでしょう?それは、この組香が「西行方と能因方との勝負」という構成を取っていることから、それぞれの方の「旗印」として少なくとも両者1つずつの歌は必要だったのではと思います。また、「二人のそれぞれの道行き」という時間的、空間的な経過を含んで1つの景色を形成するために、少なくとも1人に2つずつ必要であり、そのために結局4つの歌となったとも考えられます。
次に、この組香の第2の特徴は、連衆を西行方と能因方の二手に分けて聞き比べを行うことにあります。おそらく、「西行と能因の歌合せ」という趣向だと思います。連衆は、10人ならば5対5。6人ならば3対3にわかれ、各自の聞き当てのみならず、グループ全体が勝ちを収めるよう連帯責任を負わされることになります。
ここでは、西行と能因について簡単に説明しましょう。この組香において、どうして後輩である西行方が能因方の前に序列されているのか疑問が残りますが、おそらく作者の識見で、当時大変多くの歌を勅撰集に残し有名だった西行を先に序列したのではないかと思います。
西行
は、西暦1118年生まれ、俗名は佐藤義清(のりきよ)と言いました。23歳で出家して法名は円位となり、鞍馬・嵯峨など京都周辺に庵を構えます。1144年頃、陸奥・出羽に旅立ち、各地の歌枕を訪れて歌を詠んでいます。1190年2月16日に73歳で亡くなるまで、歌を詠み、勅撰集では『詞花和歌集』に1首入集したのを始めとして、二十一代集に計265首も選ばれており、新古今集では、収録歌人中最多の(94首を誇ります。家集としては『山家集』が有名ですが、西行にまつわる伝説を集めた説話集として『西行物語』などもあり、後世の歌人、俳人への少なからぬ影響を残しています。能因
は、西暦988年生まれ、俗名は橘永ト(ながやす) と言いました。大学に学んでいましたが、26歳の時出家し、摂津国に住みました。法名は初め融因と称し、後に能因に改称しています。また、別称を古曾部(こそべ)入道とも言いました。1013年から諸国を旅し、奥州・伊予・美作などに足跡を残していますが、特に白河関での「都をば・・・」の歌は有名です。歌は、後拾遺和歌集に初出を見ますが、自撰の家集『能因集』をはじめ、歌学書『能因歌枕』も残しており、歌学や歌枕という概念の発祥に多大な貢献をしています。中古三十六歌仙の1人です。この組香では、連衆はそのような二人の歌人になりきって、旅の景色を楽しむ一方、「道連れ」を伴って「西行御一行様」「能因御一行様」として旅をしてもらうという趣向となっています。
続いて、要素名について、説明を加えたいと思います。
「道野辺」・・・歌枕としては「道野辺」というものは無いようです。ここでは、西行の歌に詠まれた「しみずながるるの柳」の生えている場所としての意味でしょう。また、別組の「みちのく香」には、「道野辺の柳」という小道具が登場しますので、西行の歌によって、組香の創作当時には歌枕として昇華して取り扱われていたのかもしれません。
「宮城野」・・・現在の宮城県仙台市宮城野区榴ヶ岡の東部一円の平野を示す地名です。古くは、広く名取川以北の仙台平野全体を指していたとも言われ、萩のほか無数の草木が生い茂り草叢には鈴虫が鳴き、たくさんの野鳥も生息していたことから「生巣原(いけすはら)」とも呼ばれ、秋草の名所として歌枕に詠まれていました。
「柳萩」・・・西行方の2つの証歌から連想される風物を合体したものと思われます。
「柳」は栃木県那須郡那須町芦野にある「遊行柳」ではないかとされています。この「柳」は、田の依代(よりしろ:神の降臨する媒体)とされた霊木で、現在でも田園地帯の真ん中に立っており、近くに西行の句碑もあるそうです。「遊行(ゆぎょう)」とは、室町時代の時宗開祖、一遍上人(遊行上人)のことです。「上人が諸国遊行の途中訪れたとき、翁が現れて西行ゆかりの柳に案内される。実はこの翁は柳の精で、上人の十念を授かり成仏した。」という伝説が謡曲「遊行」として伝わっています。那須町芦野は、白河の関まで1日で到達する位置関係にありますが、厳密には「みちのく」ではありません。さらに謡曲「遊行」の舞台は「白河関より北にある」とされているので、現在の県域や地理・伝説には齟齬があります。「みちのく香」に「柳」が取り入れられたのは、伝説寄りの解釈からかもしれません。
「萩」は、宮城野から連想した「宮城野萩」のことだと思います。「宮城野萩」は、「宮城野」に生い茂る紅紫色の花を咲かせる萩のことで、宮城県の県花ともなっています。古くから「宮城野」とともに、また「本荒(もとあら)の小萩」の名で多くの歌に詠まれていました。藩政時代には、野守を置いて原野と萩を保護していましたが、現在では都市化が進み、公園等の植生としては、多様されていますが、自生の萩を見る事は少なくなっています。
なお、要素は、「みやぎのはぎ」から派生して「やぎはぎ」→「柳萩」となったのではないかという仮説があったため、読みを「やなぎはぎ」と訓読しました。また、後の要素「松秋風」もこれに合わせて訓読としました。
「白河関」・・・現在の福島県白河市旗宿にある関所跡のことです。かつて蝦夷地との境界をなし西暦728年頃には白河軍団が置かれ、古代大和政権の北方辺境基地だったようですが、平安中期にはもっぱら「和歌の聖地」として名高い場所になっていました。関跡が現在地に定められたのは、1800年頃のことで、白河藩主松平定信が、古絵図や古歌、地元の伝承などから推定して、旗宿の小丘に「古関蹟」碑を建てたのだそうです。現在は「関の森」と言われ、公園が整備され大きな駐車場もあります。樹齢数百年の杉の古木に覆われ、「都をば・・・」歌碑も立てられています。
「武隈」・・・現在の宮城県岩沼市二木にある根元が1本で幹が2本に別れた松のことです。現在でも岩沼市内の「竹駒神社」から伸びる「二木大通り」の近くに生えています。後撰和歌集に「植ゑしとき契りやしけむ・・・(藤原元善)」と詠われたのが初見で、その後、能因をはじめたくさんの歌人に歌枕として詠まれています。以来、野火に焼け、烈風に倒伏、ある時は伐採の難に遭い、「現在の松は7代目」といわれています。因みに芭蕉が目にした武隈の松は5代目だったそうです。
「松秋風」・・・能因方の2つの証歌から連想される風物を合体したものと思われます。
「松」は、「武隈の松」から連想する風物として、組み入れられた要素かと思います。能因は、奥州へ2度下向したらしく、「みちのくに再び下りて、旅の後、武隈の松もはべらざりければよみはべりける」と詞書を記し、「武隈の・・・」と続けています。
「秋風」は、「都をば・・・」の歌からの引用だと思います。「(春に都を旅立って」もう秋となってしまったなぁ。」という感慨そのものを著す要素です。あるいは武隈まで辿りついて、以前見た事のある場所に目指す松がなかったので、「ただ秋風が吹いているだけ・・・」という寂寥感を表しているとも思えます。
さらに、この組香の第3の特徴は、試香の出し方にあります。一般に試香のある組香は、連衆の全てに対して分け隔てなく香炉を廻します。しかし、この組香では、味方の持ち香は全部聞くことができますが、相手方の持ち香のうち1つ(柳萩か松秋風)は、試香として廻されません。そのため、各グループとも本香の中に聞いたことの無いお香が1つ混じります。本香は、聞いたことのある香(2+2+2+2+1=9)と聞いたことの無いお香(1)の合計10炉(ピンク字は味方の持ち香、青字は相手方の持ち香)となります。そこからは、普通に打ち交ぜて連衆全員に焚き出します。連衆は、試香を頼りに客香を探り、全問正解を目指します。
さて、この組香の最後の特徴は、点数の計算方法にあります。答えは、香の出た順に要素名で10炉分書き記しますが、単純に当りのみ加点されるものではありません。およそ勝負の香とは、敵の香を聞くと「功あり」として加点され、味方の香を聞き誤ると「懈怠」として減点されます。この減点を「星」とい言います。この組香の加点・減点の方法は「説明」の項に詳しく示したとおりですので、ここでは、実例を挙げておきましょう。
正解 |
西行方 |
能因方 |
||
柳萩 |
武隈 |
★★ |
武隈 |
|
宮城野 |
道野辺 |
★ |
道野辺 |
|
道野辺 |
道野辺 |
〇 |
道野辺 |
〇 |
白河関 |
白河関 |
〇 |
白河関 |
〇 |
宮城野 |
柳萩 |
★ |
柳萩 |
|
武隈 |
宮城野 |
|
宮城野 |
★ |
松秋風 |
松秋風 |
〇〇 |
松秋風 |
〇 |
白河関 |
白河関 |
〇 |
白河関 |
〇 |
道野辺 |
宮城野 |
★ |
宮城野 |
|
武隈 |
武隈 |
〇 |
武隈 |
〇 |
計 |
〇6+★5=1点 |
〇5+★1=4点 |
※ ピンク字は西行方の持ち香、青字は能因方の持ち香とする。
※ 〇はプラス1点、★はマイナス1点。
以上のように、同じ答えを書いた場合でも、それが味方の香か相手方の香かによって、加点・減点に違いが生じます。こうして、採点された各自の点数をグループで合計して点の多い方が「勝ち」となります。合計点が同じ場合は、引き分けで「持ち」と言います。これは、一般に「盤物(ばんもの)」と呼ばれるゲーム盤を使って遊ぶ組香の構造と良く似ています。別の「みちのく香」に盤物があることから、こちらは盤立物(ばんたてもの)といった人形や小道具を使わない「普通の聞き比べ遊び」として掲載されていますが、「盤物」に転用しても支障ない構成となっています。記録は「西行方」と「能因方」に分けて連衆の名前を記載し、全員分の得失点表を書き記します。そして、総合点の多かったグループ名の下に「勝」、少なかった方に「負」と記載します。賞品としての香記は、勝った方の最も点数の良かった人に差し上げるのが一般的です。
最後に、能因は、それまで机上で詠むことを常道とした伝統を捨て、実際に現場へ行って自分の目にしたことを歌に詠むという体験主義を開きました。能因は奥州を旅することによって、昔から「仮想の別天地」として現実から遊離していた歌枕を現実の土地に結び付ける役割を果たしました。西行は、約100年を隔てた後、能因の足跡を訪ねて奥州を旅し、能因の結びつけた「和歌の聖地」を更に現実の土地として追認するとともに、彼の辿った足跡にまた新たな歌枕を創出するという貢献をしました。そんな西行の足跡を今度は芭蕉が辿り「奥の細道」が完成します。芭蕉以後、奥州歌枕は完全に現実の「歌名所」として地域の施政者等に認証され、伝承されるようになりました。このように、時代を経た歌人・俳人の往来が次第に「古代のロマン」というイメージを歌枕として定着させて現在に至っているようです。
私は、芭蕉300年祭が行われた十数年前に奥の細道を巡りましたが、現実に行ってみると「・・・?」という歌枕もあることは事実で、まだまだ地域のリソースとして馴染みが薄いという感もありました。現在では、相当様変わりしていることと思いますが、地域の方々が誇らしく思える歌枕の伝承と保存を期待したいものです。皆さんも秋のみちのくで歌枕廻りはいかがでしょうか?
能因の「都をば・・・」の歌は「白河関に行かずに都で詠んだ」という説があるようです。それは、「あまりに歌の出来が見事だったので、現地で詠んだと吹聴するため、奥州に旅だったという話を撒き散らして家に篭り、半年間日光浴で日焼けして、ヨレヨレの旅衣姿で家に帰り着くという芝居を演じた。(古今著聞集)」というものですが、真偽の程はいかがでしょうか?能因がみちのくに旅立ったことは確かですし、因みに「武隈の・・・」は、その「がっかりしている様子」から現地でしか詠めない歌だとされています。芭蕉の「奥の細道」にも一部「帰ってから詠んだらしいもの」等脚色はあるようですが、紀行文にはありがちな逸話ですね。
先日宮城野八幡宮と武隈の松を見てきました。
原生(?)の宮城野萩と8代目(?)の松は元気でした。
組香の解釈は、香席の景色を見渡すための一助に過ぎません。
最も尊重されるものは、皆さん自身が自由に思い浮かべる「心の風景」です。
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