香人雑記

2001−2002

つれづれなるままに、ぼんやり書いてます。

[不定期更新]

*

2002/9/9

目から鱗!?

『香道蘭之園』という羨望の書を手に入れてから何ケ月かが立ちました。

古い書物を読んでいると、いろいろと目新しいノウハウを目にしますが、今回の蘭之園は「御家流」の源流を知る上で、特に興味深く拝見しました。

さて、ここでは私自身が「目から鱗」だったことや「現在お稽古されている人が目にしたら驚くだろうな。」と思った「当時の常識らしきもの」を羅列してみました。

以上、他の伝書等にも同様の記載のあるものもあり、今回が初見だったもの、個人的には(?。?)なものも加えまして、単純に羅列してみました。

皆さんの「目から鱗賞」はどれでしょうか?

 

2002/6/1

火筋と香筋

ある方から「火筋(こじ)と香筋(きょうじ)の筋の字は、竹冠に助の「」(Unicode:7b6f)ですよ。」とご指摘をいただきました。

指摘をいただいた際に、すぐさま手元にあった古文書に目を通しましたところ・・・「う〜ん。確かに筆字の綴りが月から力にではなく、助と書くように流れている。」と気付きました。その後、活字版の書物を調べてみますと、確かに一部「筋」のものもありますが、多くの信頼すべき書物がと表記してあり、手持ちの古文書については全てがと見えました。

「どうしてこんなことに気付かずに5年もHPに掲載していたんだろう。」と悲しくなりましたが、よく考えてみるとHPの掲載時期にもこのことについて悩んでいたことを思い出しました。その当時の私のPCは、OSレベルで「Unicode」というものがサポートされておらず、HP作成ソフトもフォントも「Unicode:7b6f」を表示できなかったのです。そのため、この字がPC上で表示できることすら知りませんでした。さらに、火偏に柱のほど多様する文字ではなく、「筋」の表記の本もあったために、「筋」と掲載したまま以降5年間、その問題意識すら忘れていたという訳です。

細かい理由は申し上げませんが、杉本文太郎先生の「香道」に矢野環先生が補注(37)を付けていらっしゃる記述のとおりだと思います。

近頃、「欧米産のフォントが日本文化を鈍らにしている」という指摘も行われているところです。このことは、日本文化を扱うウェッブサイトの運営者共通の「やるせない不満」であり、「伝承に対する危惧」でもあります。現代のネット香人が「Unicodeやフォントが無いから他の字で代用せざるを得ない」という状況と同じようなことが、書写や活字の時代にもあり、そのことが原因で用字・用語が混同しているのであれば、「意味が納得できる方向」へ改めるべきでしょう。

今回のご指摘で、自分なりの検証は済みましたし、「明らかに歴史上の何処かで誤読があり、それが一部で脈々と伝承されている」という気がいたしましたので、当HPの「筋」の字には、出来る限り「*」を設けて注意書きすることとしました。(Unicode:7b6fの「」は、未だネット上で一般的に表示可能な文字ではないので、注書付きの「筋」としました。)

作字香の創作の際も「漢和辞典に掲載されている簡単な文字がPC上で表現できないため、最も適切に当てはまる要素名の採用を泣く泣く諦めた」という恨みもありましたので、この場に掲載させていただきました。

文字は正しく書いて始めて意味が理解できるもの・・・

そして、意味を知って始めて正しく書けるものでもありますね。

 

2002/5/5

総包のこと

ある方から「総包の折り方で左前になっているものがあるんですけど、どちらが本当なんですか?」とご質問をいただきました。

私は、このご質問をいただくまで、「総包」と言えば香道具のコラムに記載した「右開きの形」しか知りませんでした。正しく言い換えますとあまり意識していなかったため、違いに気がつかなかったのです。香手前での総包の扱いにしても「右手の親指で右袖を開き、左手の親指で奥に畳まれた左袖を開き、右手で中の香包を取る」と覚えていましたし、香木を包む「香包」も右前で右開き、「志野折」についても同様と統一が取れているので、このことに疑いはありませんでした。

(更に個人的には、「右開きは祝儀、左開きは不祝儀」ということにもこだわって、「どうして裏の折り返しは上が下に被さるのか?これでは不祝儀ではないか?」という別次元の疑問も持っていました。)

しかし、この質問を契機に書物を調べてみると「左袖が手前」となっている総包や種々の変異体は、現在手に取ることができる書籍や雑誌にもこんなにありました。

書 名

掲 載 箇 所 《形状》

香道蘭之園

(翻刻版)

惣包《左開き》

(尾崎佐永子・薫遊社 校注)

P391

香道ものがたり

(神保博行著)

折り方の図《左開き》

p19

松竹梅蒔絵十種香箱《左開き》

p85

源氏別式(志野流)《志野折ではない左開き》

p111

香りの世界

(平凡社)

松竹梅蒔絵十種香箱《右開きだが袖が深い》

P62

香道入門

(淡交ムック)

十種香箱《左開き》

p32

十組香総包《左開き》

p93

香の文化

(徳川美術館)

秋の野蒔絵十種香箱《右開きだが袖が深い》

p72

菊折蒔絵十種香箱《左開き》

p72

八橋蒔絵十種香箱《志野折の左開き》

p73

※ 掲載頁については、増補、改訂、版刷等によって異なる場合もあります。

更に、古文書を紐解きますと、『香道瀧之糸』(大枝流芳編)には、「米川流には左前にかかる」と記載があり、『茶道と香道』(水原翠香著)には、わざわざ「此方を上にす」「図の如く左前にたたむ」と注釈付きで左開きの「總包」が掲載されていました。また、『御家流要略集』(細谷松男写)にも組香ごとの据付図に左開きの「惣包」が掲載されていました。これについては、同じ細谷松男が追補を施した『御家流寸法書』は右開きで作り方を示してありますから不可解です。

徳川美術館の図録「香の文化」には所持人も併記されていますが、同じ尾張徳川家のお姫様の嫁入り道具でも、「左・右」はまちまちなものがありました。これぞ、「御家(実方)の流儀」なのでしょうか?

江戸時代の香道中興期は、正に百家争鳴の状態でしたし、出版物も通信手段も少ない中で宗匠が流派の定めを律したとしても全国統一規格を形成するのは、不可能に近いことだったのでしょう。また、昔は「総包」のような畳紙は日常的に使われ、化粧道具等にも似ているものも多いことから、特殊な用途の道具ではなかったようです。そのため、それぞれが師匠の口伝や香席で使われていた寸法をもとに見様見真似で作らせていたということも考えられます。

これは、私見ですが「総包」の真偽を古法に求めるのは難しいと思います。もともと組香毎の趣向を重視したために寸法以外の規格が無かったと考えるか、諸流の規格が統廃合されてそのルーツの判別がつかなくなったために混同したと考えてもいいかと思います。

いずれにしろ昭和以降は、諸流が「厳格な規格」を設けて伝承していますので、皆さんはその教えに従えば問題はないでしょう。

研究者としては、謎の多い問題ですので、諸流御諸氏からの情報を募集いたします。

よろしくお願いいたします。

 

2002/3/31

典拠のこと

この頃「HPのこの箇所の論拠は、どの本に書いてあるの?」といったご質問が多くなりました。

香筵雅遊も「インターネットの片田舎」に移り棲んで5年になりました。ネットデビュー当時は、雑誌などにも取り上げられたものですから、多くは素人の方の「的外れで無邪気で心無い質問(^^ゞ」に翻弄される毎日でした。しかし、この頃は読者もリピータの方が多くなって、ご質問の内容も高度で多角的になり、お陰様で私自身もHP運営のモチベーションを保つことができるようになりました。

私は開設以来「HPの運営は、情報のパトロネージュ」と言い続けており、質問等の対応についても、出来る限りのことはして差し上げたいと思っています。ただし、この頃は「リアルな芸道にいらっしゃる方の検索マシン」に成り下がっているという自戒があって、少し「ネット上の無上の愛」にも疑念を持ち始めています。

・・・と言いますのは、最近「間違いなく自分の流派・師匠の言葉を盲信していながら、私の論調とのニュアンスの違いが気になるので、典拠を求めてくる」若しくは「自分が他人に喋るためのネタの確認」という主旨のご質問が多くなっているからです。「師匠はこうおっしゃっているのですが・・・」「私はこう思うのですが・・・」という情報があれば、共同研究という立場でご相談に応ずることも可能なのですが「典拠のみ」短い文章で質問して来られる方が多いのです。おそらくこういう方にストレートに典拠を示して答えたとすれば、「香筵雅遊」という情報のパトロネージュは雲散霧消して「え〜。〇〇伝書によれば・・・」と然も自分の知識であるかのように社中に伝授・吹聴されてしまうのでしょうね。風の噂には「『今月の組香』がそのまま稽古に出る。」という話も聞いています。

インターネットで得られた知識は「タダの知識」ですが、即ち「自分の知識」ではありません。「タダの知識」を自ら検証して、始めて「自分の知識」となるのではないでしょうか。

私としては、多数の書物を読み、その中から最も妥当と思われるものを「個人の信条」で選択して物を書いているのですが、それとて「1つの説」に過ぎません。また、私自身「インターネットでの情報は絶えず流動し、揮発するもの」として捉えていますので、永久に言質を変えないという保証はありません。そのため、一度伝えてしまったことが、盲信されたり曲解されたりしたまま「物」として残り、それが時を経て一人歩きし、最も大切な「真の伝承」を捻じ曲げてしまうことは、私の活動の最も忌み嫌うべき方向です。

そこで、もう1度「けいことまなぶ」(2000/9/1)に立ちかえって申し上げたいと思います。

「本当に覚えたいこと、確かめたいことは貴方の師匠にお聞き下さい。」

「それが香道人としての幸せの道です。」

 

2002/1/30

香包のこと

先日ある方から「伺った香席で『源氏香』をしたのですが、香包が源氏香のものではなかったのです。」というメールを戴きました。

この一節だけでは、「これは何のことを言っているの?」と理解できない方も多いと思います。しかし私は、初伝を戴いたばかりでこう言い切れるこの方の見識に驚き、この方を育てられた御師匠がなんと優れた伝授者なのだろうと感心ました。

現代において、組香にそれぞれ専用の「香包折り」があることは、余り知られていないことです。かく言う私も、稽古香人だった頃には「花月香包」しか見たことはありませんでしたし、それが、未だ見ぬ「花月香」の時に使われる香包だということすら知りませんでした。

しかし、香道の研究を進める途上で、私の出遭った香包は、十柱香、花月香、小鳥香、鳥合香、系図香、宇治山香、源平香、焚合十柱香、郭公香、小草香、名所香、源氏香、競馬香、矢数香、草木香、舞楽香、四町香、住吉香、煙競香、花軍香、古今香、三夕香、鶯香、星合香、焚合花月香、連理香等約30種に及びます。

「御家流香道寸法書」には、それぞれについて、試香包(試香のあるものは)と本香包の折り方、寸法が書かれています。絵図は、完成図と展開図が書かれていますが、その一部は、完成図と展開図に矛盾があったり、展開図が白紙のものもあります。折り線等もかなりアバウトで、しかも山折・谷折の区別はありません。しかし、一つ一つ折って見ると、何となく辻褄は合うもので、私は、これらの香包を折りながら、製図を残す作業をすることにしました。

私自身は、「香は心の遊び。複雑な作法や式法は伝授の道具」と思っていますが、このような伝授の道具も失ってしまっては、総体的な文化の継承というものが立ち行かなくなるのではと心配しています。

先の「結び」もそうですが、現代香人が失った「古法のノウハウ」は多いようです。これからは、教えられたことだけを伝えるのではなく、自ら学ぶ伝授者が香道界にたくさん育つことが必要かもしれませんね。

私は、「自己満足的研究者」ですから、生きた証として何処かに残すだけですが・・・

 

2001/11/30

結びのこと

積年の疑問「総角(あげまき)結び」の結び方をインターネット上で見つけました。

子供を悪魔から守るという「総角結び」ですが、いろいろなところに使われているにも関わらず、なかなか頭の中で結び方をイメージできませんでした。これが、ひょんなことから、結びのホームページにヒットし、動画で結び方が分かったときは、インターネットに感謝!感謝!でした。

私が最初に花結びに触れたのは、御多分に漏れず茶道の仕覆の緒結びです。それから暫くして志野流に伝わる十二ヵ月の花結びを学びました。志野流は「志野袋」というお香入れや挿枝袋飾り道具が残っていますので、緒を結ぶためのノウハウが残っているようですし、泉山御流も花結びについて伝授がなされていると聞きました。江戸時代の御家流では、やはり「香入袋」というお香入れが使われており、そのため花結びの伝授もあったようです。しかし、現代では、基本的に一般香人の知るところではなく、真の棚飾りや秘儀の式法中に見られる程度です。

先日「御家流白露結集」という書物に出会いました。書中には古来32種(真、草、梅、桜、蝉、葵、桔梗、蔦、菊、楓・・・真の花)の結び目録が書かれてありました。絵図は完成図のみで、結び方の途中経過は記載されていません。しかも、結び方の解説は、なるほど伝授の元本らしく「〇〇結びは、△△結びのここをこういう風に結び変えたもの」と短いコメントが書かれてあるのみで、「まず基本形の結びがら順を追って覚えていかないと分からなくなる。」という妙味のあるものでした。昔は、中伝の後に教養として結びの伝授を行っていたたようです。

今となっては、茶道用に花結びの写真入り解説書が販売されていますので、勉強する気があればいつでもマスターできます。皆さんも正絹の細紐を一本買って、挑戦してみてはいかがですか?

結構ハマリますよ〜ぅ。

 

2001/8/23

地敷の塩竃

宮城県塩竃市のMIURAさんから「香道具の地敷(敷紙)には塩竃の絵が書いてあるそうですが、何故なのですか?との質問がありました。

この頃では、「金銀の無地」が一般的となっている地敷ですが、確かに昔の書物には「表金地極彩色 松竹梅鶴亀」「同裏銀地金泥又は墨書 千賀塩竃」(大同小異)とあります。

私の知るところでは、単に「陰陽の対比」として取り扱われ、「昼は金、夜は銀」とか「春夏は金、秋冬は銀」を用いる等の伝承がありました。また、「あの絵は後西院(後水尾天皇の子息)好みで、通常は表の金泊地に鶴亀松竹梅の朱泥の絵柄を用い、凶事(追善?)に銀箔地に炭竃塩竃の「煙競べ」の朱泥の絵柄を用いる。」とされているところもあるそうです。確かに銀地の絵には、たいてい煙の出た苫屋が2つ書かれている場合が多く、「海側が塩竃」「山側が炭竃」という解釈も成り立ちます。

因みに「煙くらべ」→「凶」というと私は源氏物語の「柏木」が思い浮かびます。

柏木が瀕死の枕辺から、「今はとて燃えむ煙もむすぼほれたえぬ思ひのなほや残らむ」のという歌を送ってきます。それに対して女三宮もしぶりながらも、小侍従にせつかれて「立ち添ひて消えやしなまし憂きことを思ひ乱るる煙くらべに」と詠んで返歌を送ります。これが、俗に言う「煙くらべの歌」です。

柏木はその文を、死出の旅路の思い出にしたいと言って、最後の文を書き送ります。「行方なき空のけぶりとなりぬとも 思ふあたりをたちははなれじ」(我が身は火葬となって、行方知れない煙となってしまっても、恋慕うあなたのおそばを離れはしません。)と残して柏木は、享年32歳の若さでこの世を去りました。確かに源氏の吉凶でも「柏木」は「凶」・・・こんなところでも辻褄は合います。

しかし、「凶事」となると使用される機会も少なくなり、陰陽のギャップが更に深くなりますね。「煙競べ説」は相当有力ですが、そう解釈すると塩竃は「蓬莱山」→「金」→「陽」に比して徹底的に「陰」の役割を押しつけられている「辺境の地」的意味合いが強過ぎると思います。

もともと、歌枕としての「塩竃」は古くから「東の果てにあるという憧れの名所」だった訳で、そういう意味では「西の蓬莱山」とスケールの違いこそあれ、吉凶に匹敵するほどのイメージの格差はなかったものと思われます。いにしえの都人(宮人)が考えたことですから、地方蔑視があっても当然な訳ですが、「侘びへのあこがれ」程度の意味合いならまだしも、文字通りの「都落ち」(;_;)では私を含め、現地の人間にとってはちょっと辛い扱われ方だと思います。

いずれ、近頃では絵付きの地敷だけでも珍しく、無地のものでも銀の面を使うことは、稀有となっています。皆さんも、「地敷の塩竈」を良〜く見て、解決方法を探ってください。

※ 諸説お待ちしています。

「煙競香」の聞きの名目は、浅間山から富士山まで出て来て、「おいおい噴火かい!」ってな感じです。それでも、「塩竃の煙」は松島・塩竃の総体としての美称「千賀の浦」として登場します。

 

2001/3/28

聞くということ

よく、皆さんから「お香ってなんで聞く≠チて言うの?」と聞かれます。

私が稽古香人だった頃は、「五感を研ぎ澄まして一心に鑑賞する行為を『聞く』という。」と教えられました。いわゆる「利き酒」の「利く」の変化として捉えていた訳ですね。また、「聞こし召す」の短縮形という方も居られるようです。これも一理あります。

このコラムを始めて沢山の質問をいただくようになってから、なるべく流派等に囚われない回答を差し上げるよう書物の論拠を辿っていましたところ、ある本に「無量壽経に『以聞香為佛食』とある。」と書いてあるのを発見しました。それを見た私は、「香を聞くを以って佛食と為す」と訓読するのではないかと、早速、無量壽経の訳本に当たりました。

無量壽経の巻上の後半は「佛国土」の荘厳さやそこに住む仏たちのことが「完全体」の如く書かれています。その中に「香を聞くこと、意に食を為すと以えり。」(そこにいる人達は香りを聞くだけで、食することになり満足を得ることができる。)という文章があり、これが最も『以聞香為佛食』に近い記述でした。その結果、無量壽経においては「仏は(例えば栴檀香の)香気を食べている」という直接的な論拠は薄く、「仏は栴檀香の香気を発し、念ずれば食物が現われ、その香りを聞くだけでお腹が一杯になる。」という程度の記述であることがわかりました。

しかし、現在の全世界の宗教観から推察しても「香気は神仏の食べ物」であるということは、揺るぎない共通認識であろうと思います。以下は私の「聞香」に関する持論ですので、ご批判を賜わることもあろうかと思いますが、ご参考になれば幸いです。

お香は、元来「神仏の食べ物」だったので、人間がこれを引き摺り降ろして「翫香」をするようになり、神仏の国と人の国は離れてしまいました。しかし、人間が香炉に香を焚いたとき、立ち上る香気が天上の「妙香世界」に通じるのです。そして、神仏が香炉の上に「意識(声)」を向けますと、聞香をする人は香気を媒介にして「心象(聞)」を結びます。「香気を媒介にした神仏との対話」→これが即ち聞香≠ナある。

釈迦が自ら書いたとされる仏教の経典から「聞香」という言葉が出てきたのは驚きでした。このとき既に梵語を訳していた中国()で「聞香」という語彙が存在したということは間違いのない事実のようです。

中国茶道では「聞香杯」という香りを聞くためだけに用いる茶杯もあります。私が中国茶道を「香りの芸道」だと直感したことに誤りは無かったようですが、近頃インターネットで「聞香」と検索すれば「聞香杯」ばかりが目に付くのは、もの寂しい状況です。

「日本芸道頑張れ!!」

 

2001/2/26

香書について

先日、インターネットオークションで一色梨郷氏の「香書」を手に入れました。

昭和18年創刊と言いますから、日本が敗戦に向かって突き進んでいる状況下で書かれたものと言うことになります。いみじくも応仁の乱後の荒廃を極めた都で、香道の基礎が作られたのと同じように、大戦の最中にあっても香道の文化を懐に抱え持って守り続けていた人はいた訳ですね。

この本は、いわゆる香道の作法や組香について解説した本ではなく、香の伝来や香道の発祥と伝承過程について、都筑幸哉氏の口伝を含めて詳しく書かれています。さすがに「天皇陛下万歳」の頃に執筆されたこともあって、香が天皇家にどのように取り入れられたかついて多くの文面を費やしており、民主教育の申し子である私にとっては目新しいものがありました。

さて、私が最も衝撃を受けたことは、一色氏が「香道の範囲」を広義に捉え、組香の伝承に重きを置いた香道に痛烈な批判を加えていることでした。

曰く…

確かに「香的生活」を送る香人にしてみれば、「捧げの香」「手向けの香」「もてなしの香」「悟りの香」「遊びの香」もあるわけですから、広義に解釈できないことはない訳です。私が「究道とは組香の伝承」と、ある程度高を括ってしまっていたのは、やはり香道を伝授(商売)の範囲として狭義に解釈するという香道人的考え方が抜け切っていなかったためだったのでしょう。全てを鵜呑みにする訳ではないのですが、今後は自分の香的生活に必要なものは、壁を設けずに取り組んで行きたいと思います。

最後に余談ですが、後記の最後の文に「日本独自の香道を創案した祖先の霊が、科学者をして匂いを研究して戦争科学に応用せしめ、現時戦役に役立つように祈願して止まない。(要約)」と(毒ガスへの応用を)示唆しているところが、いかにも時代を感じさせました。(-_-;)

巻頭の明治天皇御製3首

ひらけゆく世のさま見ればなかなかに昔にかへることもありけり

年をへてすたれしこともおこさばや聖の御代のあとをたづねて

絶えりたりとおもふ道にもいつしかとしをりする人あらはれにけり

 

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